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「ボンジュール! サ・ヴァ?」
その翌日、耳に届いた軽快な声に、ももは思わず声を上げて笑った。友人の沙希からであった。
「ふふ、うん元気。そっちは?」
ももは洗面所で髪を梳かししながら答える。
「こっちがフランス語使ってるのに、日本語で返してくるとは粋じゃないわね」
「ごめん。今から話そうか」
「もういいわよ」
まったく、と言いつつも、沙希は電話口で近況を話し出す。ひととおり話し終えると、ももに訊ねた。
「そっちの生活はどう? エンジョイしてる?」
いかにも沙希らしい含みのない訊ね方だと思った。ももは鏡の中でほつれた髪と格闘しながら、「うん」と答えた。
「エンジョイとは遠いかもしれないけど、でも、楽しいわ」
「ならよかった。あ、クスミティー、買ってくれた?」
「もちろん。カフェ・オ・レ・ボウルも手に入れたよ」
「さっすが、もも!」
パリのアパルトマンに置き去りにしてある、とっておきの陶器のボウルを思い浮かべて頬を緩める。
「それで」
沙希は話題を切った。
「いつこっちに帰ってくるの?」
一瞬の空白。のちに、ももは髪をとかすのをやめた。
「ん、ビザとってないし、来月の頭には、帰らなくちゃ、ね」
居間に飾られたカレンダーを眺めると、いまだに九月のままだった。だが、それはもうとっくに過ぎている。耳から携帯を外して確認すると、もう十月も後半に差し掛かっていた。ももがこちらに来てからあとわずかで三ヶ月だ。
「そっか」
電話口の向こうで、沙希がどこか安堵して言った。
「帰ってきたらどうするとか、決まってるの?」
「ううん。まだ」
帰ったら——急に夢から覚めたように頭が冷えて、ももはひそかに唇をかむ。
「とにかく、日にちが決まったら教えるね」
「うん、よろしく頼んだ!」
余計なことは言わずに会話を終わらせた。
またね、という沙希の声を皮切りに、静寂が戻ってくる。
ふう、と唇からこぼれたのはため息だ。それから、ももはブラシを握り直して、毛先に通していく。ももは、鏡の中を眺めてある存在に気がついた。
「使う?」
シモンが洗面所のドア口に立っていたのだ。先に起きた彼は、朝一番の空気を浴びに外へ出ていたのか、無造作に額に落ちた髪がほんのり湿っている。
こちらを見つめて立ち尽くすシモンに、ももは夢を見るような顔をして微笑んだ。
「どうかした?」
「いや」
かすかにかぶりを振り、彼は歩み寄ってくる。
「貸して」
そうして彼女の手からブラシをいとも容易く奪うと、白い首すじに落ちた栗色の髪をひと筋手にとって慎重に梳かし始めた。
カンヴァスを撫でるときよりも少しだけぎこちないその手捌きに、ももは胸にたしかなこそばゆさを感じながら鏡の中に映る彼の姿をじっと見つめた。
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