第十四話

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 穏やかな時は、ゆっくりと、だが確実に過ぎていく。  夢を見ていた。どんな夢だったかは覚えていない。たっぷりとした光の中で、ゆらりゆらり水に浮かんでいるような、感覚。  頬を撫ぜる風がやさしく、体を包む水はあたたかく。とても、しあわせな夢だった。 「……ん」  ある日の昼下がり、どうやら、ももはアトリエで眠っていたらしい。たしか、掃除を終えて、外で制作するシモンのことを眺めていた。だが、それからの記憶がない。冬の香りを(まと)った風とはうらはらに、日差しは暖かく、睡魔に襲われるような陽気だった。 「起きたか」  どのくらい寝ていたのか。ぼんやりする思考を(もた)げて、飛び込んできた低い声に引き上げられるように、ももはゆっくりと体を起こした。 「ムシュー」  すぐそばにシモンがいた。イーゼルを立てて、カンヴァス越しにももを(うかが)い見ている。  いつもなら、向き合うようにイーゼルを持ち出すことはない。ももがあとから彼の目の前に立ちはだかった場合は別として、彼は好きな場所にそれを置くことができる。 「なにを描いているの?」  ももは作業台に頬杖を突いて、窓から射し込む光に目を細めながらシモンを見つめた。ちょうど壁によってできた影に彼は佇んでいる。小さな小さな塵が陽光に煌めき、精悍な顔立ちにヴェールをかぶせる。どこか神秘的だった。 「さあな」  そのとき、ももははじめて男の微笑を見た。気難しく結ばれた唇が、やわく弧を描く。まなじりは弛み、頬にひと筋の線が刻まれる。美しいヘーゼルの瞳は、優しくももに注がれていた。 「なあに、気になる」  いたずら心が生まれて、椅子から身を乗り出す。 「気にするほどのものじゃない」  前髪を落としてふるい、イーゼルからカンヴァスを外すシモンの顔はもうすでにいつもの仏頂面であった。いそいそとなにかを隠すように立ち上がって、アトリエをあとにする。  もう、と唇を尖らすももであったが、男が残した微笑は胸の奥に灼きついて離れない。カンヴァスに与えられる視線とも、光から逃れようとするそれともちがう。  長年連れ添った夫婦のような安心感と、名前しか知らない他人としての心地よさ。それらを抱きしめながら、まろやかな日差しの中で彼女もまた頬を綻ばすのだった。  だが、変化は突如として訪れる。荘厳な教会の鐘が鳴るように、あるいは、重たい鉛玉が落とされるように。静かな水面に飛沫が上がり、大きな波紋が立つ。  翌日、ももは小屋の裏手にある倉庫で、一枚の絵を見つけた。古びたイーゼルの奥、埃まみれの黒い布に隠された、一枚の絵画を。
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