第十五話

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 ここにはいられない。どうしてか、そう思い、ももは我にかえると倉庫から飛び出していた。 「どうした」と声をかけてくるシモンにも、狼狽した様子を隠さず、「ちょっと買い物に」と身ひとつで丘を下りた。そうして、ひたすらうねりをあげる心臓を押さえながら、必死で溢れそうになる涙を堪え、街へと向かって歩いた。 「マドモワゼル」  歩き、走り、無我夢中でクレマンソー橋を渡りヴェルノンの街にたどり着いたところで、ももは腕を掴まれた。 「どちらへ行かれるのです」  視線を上げた先にまみえたのは、ジャン=クロードの貴族然とした均整のとれた顔だった。ツン、と上を向いた鼻や、小ぶりな口、それからカリブの海みたいな瞳が彼の研ぎ澄まされた空気をいっそう強めている。  まさかこんなところで会うとは。なぜかはわからないがその姿に先ほどまで見ていた光景が蘇って、もものまなじりから、雫がひとすじ伝った。  ジャン=クロードの穏やかな表情が一変する。 「もしや、を見つけたのか?」  ももは、こっくり頷いた。  一九九〇年北フランスの海辺の街、ドーヴィルで描かれた一枚の絵画。あふれんばかりの光の中で、佇む一人の女性。若き画家シモン・ロンベールによって描かれた作品である。  それは、これまで見たことのなかった、彼の影に潜む絶対的な光の存在を映し出したものであった。  滲んだ視界にもはっきりと映るその(ひと)の姿が脳裏にこびりついて離れない。  なんと美しい絵画であっただろう。色彩の鮮烈さ、儚いほどに繊細なタッチ、そのどれを思い起こしても全身の細胞が沸き立つ。  目の奥や耳、喉、それから胸のあらゆる芯部から熱があふれ、駆け巡るあの感覚!  まるで、マグマが噴き出すごとく激しい血潮! 「それで、どうだったかな、あの絵は」  掴んでいた腕をほどき、ジャン=クロードはひとつため息をつきながらグローブをとる。  つい少し前まで苦い表情を浮かべていたというのに、もうすでに毅然とした表情に戻り、指先でグローブを掴む仕草さえ悠然としていた。  ももは、目映さに目を細めて、重い唇を開いた。 「すごい、画家だわ。あの人は、シモンはすばらしい画家なの」  あの絵を見たときの高揚は、かつてないほどだった。一瞬でももの目を灼き、その心臓を抉った。抉られたそこはとてつもない熱を発し、ももの思考を乗っ取ろうとした。いや、今もなお、彼女は内から沸き起こる激しい感情に飲まれようとしている。  シモンを賞賛する言葉とはうらはらに、彼女の頬は次々とあふれる涙に濡れていた。  それでも、、彼女はたおやかに微笑む。ほんの少し錆びた鉄の味が口内に滲むのも(いと)わずに。  ジャン=クロードはそんなももを見つめていた。 「モモ」  外したグローブを揃えて外套のポケットにしまうと、彼は彼女の乱れた前髪に指を通した。 「君に、いいものを見せてあげよう」  ぱちり、しどけなくまつ毛を揺らしたももの肩をジャン=クロードはそっと抱く。それから路肩に停めてある黒塗りの高級車に彼女を乗せるとヴェルノンを発った。
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