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第十六話
辺りはまだ、薄っすらと宵のヴェールを纏ったままだった。
シモンの寝息を確認してそっとベッドを抜け出すと、足音を盗んで洗面所へと向かった。電気もつけず、微かに窓から注ぐすみれ色の明かりを瞳に浴びる。澄んだ空気は横っ面を叩くかのように鋭い冷たさだった。
体が温もりを失う前に、支度をする。顔を洗い、サッと髪をとかして乱雑にまとめると、鏡の中の女は泣いていた。ひどい顔、小さく呟いた言葉は、夜明け前の空気に吸い込まれていった。
黒いタートルネックのニットと、細身のジーンズを身に纏い、首元にはレースライラックのストールを。ここへ転がり込んだ日の、もとの自分に戻ったわけだ。どことなく沈んだままの気持ちを抱いて、ももは支度を終えるとアトリエに出た。
淡い光が、少しずつヴェールを引き上げている。だが、冬に近づいたジヴェルニーはまだまだ宵の中だ。グランジのコーディガンを羽織り、必要最低限のものしか入らないポシェットを肩からかける。もはや、やるべきことはない。
大きく息を吸い込むと、黴びたアトリエの匂いがした。相変わらず、このシモンの城は散らかっている。ももがいくら片付けたとしても、ものの一時間で元どおりだ。早いときには、三十分。机の上に散乱したチューブと、木炭と、それから、油を溶くための小皿と。絵画のための道具であふれかえっている。
目の奥がツンと痛んだ。その痛みを刻むように瞳を閉じると、すっかりももは静寂に飲まれていた。
夜がはっきりと明ける前の丘は、誰もかもが消えひっそりとした湖畔だった。その優しさと温もりと、息苦しさとを抱いて、ももは喉に痞えたなにかを飲み下す。
目を開くと、微かな光さえもひどく目映く思えた。画材に埋もれた机から紙切れと、鉛筆とを拾い上げ、書き置きをした。日本に帰ることと服や物は処分してほしいこと、それから、世話になった分のお金はいかなる手段を使ってでも必ず渡すこと。それらを書くのにもう辞書は必要なくなっていた。
ありがとう、と最後の言葉を書き終えて、筆を置く。糸が切れたように、全身の力が抜けた。
そのとき、低く掠れた声がももを呼び止めた。
「行くのか」
間仕切りの布の向こうに、大きな影が映っている。全身が震え、目の奥からなにかが溶け出すような気がした。
その影を抱きしめてしまいたくて、たまらない。その影とひとつになって、溶けてなくなってしまえたら、いいのに。愛しいとは、こういうことなのか。燃えるような感情の果てに、胸を握りつぶしされるような痛みを覚えて、ももはその声に応えることなく。男の城に背を向けた。
アトリエからでると、いっそう冷たい空気がももの頬を打った。
もはや、冬が訪れていた。
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