第十六話

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 思えば、あの丘に初めて訪れたときから、絵を描く男の姿に焦がれていたのだろう。ならば、あの心の揺さぶりが恋だったのか——いや、あれは、容易く表現できるものではない。そんな、もろい感情ではなかった。だが、それがその瞬間から恋や愛などというはっきりとした恋慕とは限らなくとも、その種はきっとすでにそのとき蒔かれていた。好きだと思う感情よりも先に抱いた、「もっと見ていたい」「この瞬間を逃したくない」「逃してはならない」という強い衝動の根底で、根を張り、芽吹き、いつのまにか見えぬところで花が咲いていた。いや、見て見ぬふりをしてきたというのが正しいか。  そして、驟雨(しゅうう)の降る日、彼がカーテンのこちら側へ飛び込んできた瞬間から、ももの中でが変わった。その繊細さと情熱、そして光と影を操る感性に焦がれ、彼の筆によって永遠にカンヴァスに刻み込まれたい。彼の絵の中で生きられるのならば、命など惜しくもないと思うほどに。  そうして二人は少しずつ、互いの身を寄せ合った。示し合わせることもなく、自然と、影がそっと溶け合うように、二人は寄り添った。  彼女の傷にふれ、その傷をなぞり、優しく包みこむシモンをどうして愛さないでいられよう。  愛がなにを与えたか、彼女はそれを知りながら、それを拒絶するふりをしておきながら、シモンをどうしようもなく愛してしまった。そして、今もなお愛したいと思ってしまっている。  ただ、彼のそばにいることが幸せだった。彼のそばにいると、自分が自分らしくいられる気がした。  しかし、今さら、恐ろしくなった。彼を愛し、そして、失うことが。ほとんど愛し方すらわからないというのに、感じたことのない遥かに大きな感情を抱きながら彼にすべてを求め、曝け出すことが。  思えば、恋愛とは、彼女にとって諦めの日々であった。愛し愛されるという幸福からはほど遠く、互いを情という鎖で縛りつけていたようなもの。相手に期待しなければ傷つくことはない。多くを望まず、寄りかかることもせず、常に自分の足で立っていれば、なにかあってもまたすぐに立ち直ることができる。優しい女でいなくちゃ。聞き分けのいい彼女でいなくちゃ。そうしたら、愛してもらえる、と。  シモンは特別だった。そして、彼の前にいるもも自身もまた、特別だった。  ためになる意見を言おうと偉ぶることも、好きでもないものを好きと言うことも、好きなものを素知らぬふりして隠すこともない。言葉がでなくなったときですら、ただ優しさに包まれていることのできる、ただ一人の人間になることができたのだ。……
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