第十六話

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 コン、コン、と茶けたスニーカーが階段を上がる。白塗りの壁よりもくすんだ自分の足は、この荘厳なオスマニアン様式のアパルトマンには不釣り合いだった。だが、今ではその早くも年季の入ってしまったスニーカーがもものお気に入りでもあった。足を止めることなく一段一段踏みしめ、やがて、階段を上り終えると、バロック調の美しい飾りの中で、瞬く金字がももの目に飛び込んだ。  ひとつ深呼吸をして、真鍮の取っ手を握る。だが、一瞬考え込むと、ももは取手を離して、鞄の中から一枚のカードを取り出した。しっとりとした黒地のカードに、これまた金色の文字。 『ギャラリー・ベルジュラック』と綴られたそれは、まさしくその城の主を思わせた。  またひとつ息をついて、ももは精緻な細工の施された真鍮に手を伸ばす。  キィィ、と蝶番の音が上品に鳴り、ももが画廊へ入ると、一人の女性が彼女を出迎えた。  ボンジュール、にこやかな笑みは、決してももを値踏みすることもなく、完璧な慇懃さを称えている。髪はシルバーブロンドで、赤いルージュがよく似合ういかにも洗練されたパリジェンヌの装いだが、微笑みの節にどこかジャン=クロードを思わせた。  ももは丁寧にあいさつを返し、彼女に名刺を差し出す。彼女はそれを一瞥すると、にっこりと笑みを深めて、「どうぞごゆっくり」とももを受け入れた。  足の裏を柔く包む絨毯がこそばゆかった。絵画を保管するために管理された室温と、また、画城にふさわしいビロードのマントを下ろしたような空気は、ももの細胞を予備おこした。ラスキンやロセッティなどのラファエル前派を思わせる修道女の絵画や腕のない彫刻、あるいは精巧なギリシア神の石膏、ひとつひとつをその目に灼きつけるように作品を見て回る。先に先客がいたようだが、誰もが目の前の芸術(アート)に魅入られた観客であり、また、実体を失った透明人間であった。  作品群は古典から近代に移り変わった。ラフなタッチの風景画や人物画が増え、部屋の雰囲気がガラリと変わる。荘厳な貴族サロンから、農村の田畑に飛び出したかのようだった。やわい草を踏みしめて、青い風を感じる。  やがて、ももは一枚の絵画の前で立ち止まった。  一面の白。 「その昔、実に愛情深い男がいましてね」  静謐な声が届く。 「美貌の妻のことを愛し、男は妻を描くのに夢中だった。寝る間も惜しみカンヴァスの前に立ち、絵筆を握り、油で色を溶く。それこそが彼の幸福であり、生きがいだった」  そっと後ろに現れたジャン=クロードを振り返らずに、ももは絵画を一心に見つめていた。
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