第二話

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 無事、許可が下りたこともあって、なにごともなかったかのようにイーゼルを立てる男の後ろで、ももはこっそりと小屋を覗くことにした。  六畳ほどの小さな室内に、所狭しとカンヴァスやイーゼルなどの画材が並べられている。机や棚には出しっ放しのチューブや鉛筆、陶器の筆立てには大小異なる絵筆やペインティングナイフが何本も立てられ、その雑多さがいかにも画家の棲み処といった感じだった。 「すごい」  二つある大きな窓からは、それぞれ白いレースのカーテン越しに朝のさっぱりした日差しが差し込んでいる。だが、全体的に薄暗く、陰湿な印象を受ける。何枚も何枚も無造作に並べられ、重ねられたカンヴァス。どこか埃っぽく、湿った匂いがする。ふしぎと胸が高揚した。 「……懐かしい」  ももの声がぽつり、その黴臭さに似た空気にほどけた。  小学生の頃だったか。渡り廊下を渡って、別の校舎へと向かうとき、この匂いをよく嗅いでいた。普段あまり使われないせいか、それとも、プールの近くだったからか、美術室への道のりはいつも埃と湿気の陰湿な匂いに満ちていて、その匂いを嗅ぐたび友人たちはこぞって顔をしかめていた。けれど、ももは反対にその独特の匂いが好きだった。授業で使う教材を胸に抱えて、それらをたっぷりと胸に閉じ込めたりもした。  ももは、じっくり深呼吸をする。  そうしてアトリエ中を見渡すと、黄ばんだリネンのカーテンの向こうに影が映っているのを見つけた。大きな影が、ゆらりゆらりと揺れていた。  鼓動が静と動のはざまをさまよう。ももは瞳を閉じてその残像を味わったあと、台の上に置かれた一枚のカンヴァスへと手を伸ばした。  太陽に照らされ、水面がきらりきらりとさんざめいている。セーヌの水面だ。乙女の艶髪のごとく、しだれ柳がそこへかかり、やわく影を落としている。昨日とは異なる川畔の風景であった。 「きれい」  またしても、思わず言葉がこぼれていく。  カンヴァスの中に描かれたものは、決して動きはしない。そうだというのに、ももの瞳に映る柳はそよぎ、反射する光の綾が幾重にも水面で揺曳(ようえい)していた。  あたたかな風が吹いているのだろう。まったりとした午後の日差しに包まれて、青い川の匂いがする。きっと、水は冷たいに違いない。  (いざなわ)れるように、指先でカンヴァスの肌をなぞって、その感触を味わう。厚く重ねられた絵の具の凹凸、ざらりとしたタッチ。ジンジンと目の奥が、喉の奥が熱くなる。  ごくり、ももは喉を鳴らす。 「なにしている」  だが、不躾な声が背中に突き刺さり、ももは慌てて手にしていた風景画を元の場所に戻した。  
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