第十六話

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 窓の向こうになにが映っているのか、ジャン=クロードの碧い瞳が静かに下を見下ろしている。カンボン通りに面した窓だろうか。だとしたら、真下にはのんきな観光客の姿が行き交うに違いない。ももは再び、カップのはらを撫でる。 「ただ」  ジャン=クロードが静かに言った。 「逃げた先が底なし沼じゃ、かなわないなと思ってね。本当に、どいつも、こいつも」  珍しく唸るような声に、ももは瞠目し、顔を上げた。  外を見ていたはずの瞳とかちあった。 「沈むかもわからないのに、船体が波に揺れただけでとち狂った人間は海に飛び込もうとする。あたかもそれが最善だと思ってな」  鋭く、心の(うち)を見透かすような瞳であった。シモンのようなささやかな優しさも温もりもない、厳しくも、確かな、まるで絵画を見定める職人の眼。 「だが、飛び込んだ先になにがある?」  うすく、にびやかな日差しが男の頬を照らす。顔の左側には、影が重くかかっていた。  ごくりと固唾を呑んだももに、やがて男はたおやかに笑む。 「人間が変えられるのは未来だけだと思っていますか、モモ」  今度は、まるで、神に罪の告白をするときのようだった。敬虔(けいけん)なクリスチャンでもないというのに、あたかも大聖堂でマリア像を見上げているような、不思議な気分になった。 「過去も、変えられると言うのですか」  たどたどしく細切れにももが紡ぐと、窓際のマリアは笑みを深め、艶美さを際立たせた。 「あなたがとてもよく知っているはずですよ」  音も立てずに、ジャン=クロードはもものもとへ歩み寄る。 「あなたは、わたしが過去を手にしているといいました」 「ええ」彼は頷いた。 「今も変わらず、紛うことなく、あなたの手の中にある」  シモンの手とは違う、まさしく商売人の小綺麗な手がももの白い指先をとる。 「シモン・ロンベールという男と初めて出会ったときと、彼の中に影を見出した今、あなたの中にどのような変化が起きているのか。いや、あの男と出会う前と今、と言ったほうがより懸命か」  恭しくその指先をなぞり、手のひらを開かせ、それからやわく包み込む。 「モモ」  ジャン=クロードの碧眼がももを射抜いた。 「ほかではないあなたが一番よく知っているはずだ」  胸が小刻みに震え、情けのない吐息が唇から漏れる。そして、白い頬に一筋の涙を落としながら、わかりかねたように、あるいは、そのすべてを手にしたかのようにももは悲痛な表情を浮かべた。  ジャン=クロードは小さな手をそっと撫で、また、ガラス細工を扱うようにして彼女の膝に戻すと、ふと口元を緩めた。 「それで、今日はどんなご用で?」  いつもの貴族然としたジャン=クロードが現れ、ももは唇を噛みしめ、一度瞳を伏せてから答えた。 「……ある画家の絵を、買いに」  色素の薄い睫毛が揺れる。 「ほう、それはいかような画家でございましょう」  もったいぶったような物言いだが、それでいて嫌味でない洗練された雰囲気に、彼が一流の画商であることを感じさせた。ももは濡れた頬を指先で拭い答えた。 「ジヴェルニーに住む画家なんです。孤独で、優しく、あらゆる影を美しく(えが)く、一人の画家です」  ジャン=クロードの目が大胆に細められる。 「マドモワゼル、お目が高い。では、どちらにいたしましょう?」 「雨のヴェルノンの街並みを。それから、西陽がたっぷりとそそぐ、ジヴェルニーの丘も」  震える声で、だが、はっきりと静かな城に響かせてももは言った。口にするたび、そして、彼の絵を思い描くたび、胸が熱く膨らんでいく。 「部屋に、飾りたいんです」 「左様で。きっと、すばらしい窓になることでしょう」  膨らむ想いを隠すことなく、ももは、「ええ、すばらしいんですよ」とジャン=クロードに泣き笑いを浮かべた。 「マドモワゼル、どちらへお届けに上がりましょう? ホテル、それとも、日本に送りましょうか」  ももはかぶりを振った。そして、はっきりとした声で言った。 「パリ七区のアパルトマンまで」
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