第十六話

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 画廊から帰る道すがら、ももはノートルダム大聖堂に向かうことにした。メトロに乗ってトルビアック駅まで帰るのもいいが、寄り道もたまにはいいと思ったのだ。ヴァンドーム広場から、チュイルリー公園に向けて歩き、それからルーブル美術館を横目にセーヌ沿いの大通りまで出る。  寒空が広がっていたが、晩秋のパリは美しかった。  色付いたマロニエの街路樹を進み、ポンデザールが見えてくる。燦々(さんさん)と光を浴びる歴史の橋には、大勢の人が見えた。ブロロロ、というエンジン音に、水を切るバトー・パリジャン、川縁(かわべり)で芸を披露する大道芸の音楽が鳴り響き、そこかしこで笑いが溢れている。  かつて恋人たちが愛を誓ったという橋の向こう、サント・シャペルの細長い尖塔や大聖堂の双塔を眺めながら、ももは携帯をとりだして、沙希に電話をかけた。 「もしもし?」  珍しく舌ったらずな声が響いてくる。 「あ、沙希?」 「ん……おはよう……」  日本は早朝だ。そういえばそうだったと時差を思い出して、早くにごめんね、と謝るももに、沙希は低い声で、「で、どうしたの?」と先を促した。 「たいした用事じゃないの」 「たいした用事じゃなくて、こんな時間にかけるかな、普通」  ももはひとりでに、たしかに! と笑った。急に笑いだした友に、「なに、お酒でも飲んだの。まさか、変な葉っぱとか吸ってないでしょうねぇ」と、沙希は怪訝に浸る。  ごめんごめん、ももは肩を揺らしながら、くっと笑いを抑えて携帯を握りなおす。 「大丈夫よ。なんだか、沙希の声が聞きたくなったの。沙希と、話したくなったの」  笑いのために折り曲げた体を起こすと、美しいパリの景色が双眸に飛び込んだ。ハッと息を呑むほどに荘厳で、思わず体を抱きしめたくなるほど、切なく、儚く完璧なまでの郷愁(きょうしゅう)がももの胸の(うち)をやわくくすぐる。 「ねえ、沙希」  大きく息を吸い、パリのからりとした空気を胸に留める。 「帰ったら、ごはん、食べに行こう」  なに、いきなり、と沙希は訝る様子を隠さなかった。足もとへ一度視線を落として、うす汚れたスニーカーの爪先をちょんとあげたあと、ふふ、とももは笑う。やがて、沙希のほうが降参した。 「ま、こんなことも珍しいから、たまにはいいけどさ」  大きなあくびをこしらえる音がして、ももは辺りを見渡した。彼女と昔、心弾ませながら歩いた街を、そして、今なお夢の象徴である、華やかな都を。なにもかもがあり、そして、なにもかもがあのころのまま、パリは今日も息づいていた。
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