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「で、とびきりの日本料亭でも押さえておこうか?」
聞こえてきた声に、「和食かぁ」とももは呟く。
沙希はグルメ雑誌の編集部に勤めているからか、かなりの食通だ。彼女に任せておけば、ハズレはないだろう。だが、ももは秋風にさらわれた髪を耳にかけ直しながら、「だったら、お茶漬けがいいな」と続けた。
「え、そんなのでいいの」と、驚く声が届く。ももは、うん、と迷わず肯いた。
「あ、でも、だし巻き卵も食べたい」
だしのよく効いた、熱々ふわふわの。そこへすり下ろした大根を盛って、しょうゆを垂らす。想像するだけで口の中が潤った。
「じゃあ、小料理屋?」
「そんなしっかりしてなくていいよ」
「ええ、居酒屋ってこと?」
「そうかも」
くすくす笑うと、沙希はまたひとつあくびをこしらえて、「それで」と言った。
「本題はなにかしら、伊賀利さん」
「沙希には敵わないわね」
ももは止めていた脚を進めながら、自嘲気味に息をついた。
「何年一緒にいると思ってんのよ」
「それもそうね」
しっかりと地面を踏みしめながらももは進む。マロニエの葉が鳴り、車がすぐ横を通り抜けていく。セーヌの流れは悠然で、どこまでもどこまでも続いていく。
「あのね」ももはゆっくりと切り出した。
「もう一度、学んでみようと思うの」
心の裡がすっと空いた。スッキリしすぎて、かえってむず痒いくらいだった。
「好きねぇ、勉強」と沙希が目を回す様子が目に浮かぶ。ももはツンと痛んだ鼻をすすり、もう一度パリの大好きな香りを吸い込むと、前を向いた。
向こうから家族連れが歩いてくる。両親に挟まれ、手を引かれて宙にぶらりと浮く男の子は満面の笑みを浮かべていた。寒々とした色彩の町並みに、鮮やかな色が生まれる、なんと明るく、あたたかな、幸福の色!
目の奥が熱くなる。視界が滲む。
ああ、なんと、なんと美しいのだろう。
「ま、いいと思うけど」
沙希が続ける。
「で、今度はなにを?」
ももは濡れた目元を手の甲で拭い、凛と顎を上げて答えた。
「そうね……芸術を」
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