第十七話

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 ジャン=クロードによれば、今日にでも絵画が届くだろうとのことだった。ひとしきりのたそがれを終えると、なんだかんだ沙希や家族への土産でパンパンになってしまった旅行鞄をリビングの端に移動させて、ももはドアベルが鳴るのを待った。  日本に直接送ればいいものの、なぜ、アパルトマンに持ってくるよう頼んだのか。  飛行機での手続きを考えれば、物憂さも少々ある。それでも、何日も離れ離れになる前に、このフランスという地で彼の絵を眺めていたかったのだ。、彼の絵を。  だが、ジーッという時代を感じさせるベルが鳴ってやって来たのは、配達員でも、画商でもなく、画家本人だった。 「どうして……」  伸びていた髭が、さっぱりなくなっている。無造作に散らかっていた髪も記憶の中よりかは短くなり、ワックスで撫でつけられた前髪がひと筋、こめかみに落ちていた。  立ち尽くすももを、画家は逞しい腕で自分の胸の中へ閉じこめる。言葉はない。だが、背を抱く力の強さに、ももは彼の感情の揺らぎを感じとった。途端、全身の力が抜け、チップを渡すために持っていた財布が情けない音をたてて、ポーチに転がった。 「ムシュー」  大きな手のひらが彼女の背を撫で、その形を模るように頭蓋を包みこむ。かろうじてこぼれた声は男の厚い胸板に吸い込まれた。  モモ、と掠れた男の声が耳を愛撫する。愛を喪った男のそれとは思えぬほど熱く、それでいて、胸が焦がれるほどに儚い音色だった。 「行かないでくれ」  たった一言、だが、ももが求めていたなによりの言葉をシモンは彼女に与えた。ももの双眸から涙があふれ、シモンのセーターの胸元を濡らす。 「シモン」  なんと呼んでよいのかわからず、何度かの浅い呼吸のあとやっとのこと彼女はその名を紡ぐことができた。震えた唇からこぼれた吐息はまるで魔法のように彼女の胸を熱くする。青々とした大地と、熟した男の香りと、その奥に微かに残るテレピン油の匂いが彼女を包み、ももは気がつけば必死になって大きな背に手を伸ばしていた。  愛してはならないと、決して愛しはしないと誓ったはずだのに、熱く膨らんだ想いを止めることは、もはや不可能だった。  どうして彼を受け容れないでいられよう。どうして、彼を求めずにいられよう。  ももの胸からあふれる感情はまるで激しい川の流れだった。セーヌの悠然とした流れなど可愛く思えるほどの、強く、荒く、激しい感情の濁流……。  シモンはそれを受けとめ、そうして、その流れよりもはるかに大きな感情とともに彼女を抱きしめた。
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