第十七話

3/5
前へ
/90ページ
次へ
「パリにいたとき、私はまだ二十歳やそこらの若者だった。恐れるものはなにもなく、ただひたすらに絵を描き、夜の街を渡り、少し眠っては、また絵画に没頭する日々を送っていた。いい時代だった。なにもかもが手に入ったし、なにもかもが自由だった。そんなとき、画家仲間の友人に紹介してもらったのが、彼女だった」  出窓に二人で寄り添い、彼女の髪を梳かしながら彼は語った。必要最低限の家具しか置かれていない部屋に、彼の声はしんとほどける。だがひとつもこぼさぬようにももは耳を傾けていた。 「ひと目で私は恋に落ちた。まるで不死鳥の尾羽のように艶やかなブロンドと、なにも恐れぬ強気なまなざし。それでいて思慮深きグリーンの瞳は、そのころ私がまさに求めていたものだった。何枚も何枚も彼女を描いたものだ。飽きることもなく、寝る間も惜しんで。やがて結婚し、美しい妻を描くことが私の生きがいだった。だが、幸福な生活が長く続くことはなかった。妻は私を裏切った。そして、裏切ったまま死んでいった」  遠くに、サイレンの音がする。パリの喧騒は二人を世界からは完全に隔絶しえなかった。  男のかさついた指先を感じながら、ももはもう片方の彼の手を握る。 「私は許すつもりだった。だが、彼女の方が耐えきれなかった。そこから私は酒に溺れ、ときには危ないこともした。ほぼ屍のような状態だったよ。そして、あるとき、ジャン=クロードがやってきた。『祖父のアトリエにでも行ったらどうだ』と半ば無理矢理、私をあそこへやった。それからは、君の想像するとおりだろう」  静かに声が落とされていく様は、まるで完成された物語を紡ぐようだった。
/90ページ

最初のコメントを投稿しよう!

107人が本棚に入れています
本棚に追加