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「私はしばらく絵も描けず、放心状態だったが、豊かな自然と時間がそれを解決してくれた。少しずつ、筆を握り、記憶の底に眠っていたジヴェルニーの風景を描き始めた。悠々と流れるセーヌ、傾いだ家屋、色を変える大聖堂や、モネの庭も。以前と変わらぬように、いや、より大胆で繊細な表現ができるようになっていた。だが——」
淡々と、そこに感情などもはや見出せぬほどによどみなく語られていたが、不意に、髪を梳く手が止まった。
「人を描くことはできなかった」
脳裡に、彼が描いた数々の風景画が蘇る。穏やかなセーヌ川畔、目映いほどの丘、森閑としたヴェルノンの街並み。
窓から射し込んだ光に、床の影が伸びている。大きく、ひときわ濃い影だ。
「だれかをこの手で描けば、きっと私は殺してしまう——情けないことに、逃げたんだ、私は」
声色に自嘲を滲ませたシモンに、ももは首を振った。
「逃げてない。あなたは、逃げてないわ」
彼は彼を守ったのだ。かつて、もも自身がそうしたように、彼は自らの心を、命を絶望から救ったのだ。
彼の手は大きく、ももの手ひとつでは包み込むことができない。それでも、彼女はきつくそれを握り、そしてもう片方の手を重ねた。身を寄せ合った二つの影は、一つになり、侘しいアパルトマンに彩りを生む。なにもかも芸術であり、そのすべてが美しかった。
シモンは彼女の手を握り返すと、頭蓋に添えていた手を優しく引き寄せて、彼女の髪に唇を落とす。そうして、彼女の名を呼んだ。
「モモ」
なあに、ももはその音色に身を委ねる。
「私はまだ、昔のように絵は描けないだろう」
それが、なんの問題なのだろう。もはや、彼女にとって、そんなことはどうでもよかった。目の前の男を愛していたのだ。そして、その男が描く絵を尊んでいた。
「かまわないわ」答えたももに、シモンは微笑み、やおら小さくかぶりを振る。
「それでも、君のために絵を描きたい。君と生きていくために」
その日、シモンは彼女のもとで一晩過ごし、それから次の日の朝早く出ていった。ジヴェルニー行きの一枚の切符をテーブルの上に残して。
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