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またその向こうでは、老夫婦が寄り添い、郷愁に浸った面差しでカンヴァスを見守っていた。スカーフを巻いた女性が時も忘れて穏やかな夜に身を委ねていたり、食い入るように学生風の青年が絵画の前を行ったり来たり。
さらに画廊の最奥、より光と影の豊かな絵画が並ぶ中には、一人の少年がじい、と、ある風景を眺めていた。
自転車でも漕いでいたのだろう。癖づいたブルネットの髪は乱れ、赤らんだ頬をそのままに一心にカンヴァスと対峙している。小脇に小さなヘルメットを抱え、背負われたリュックからは分厚い本が何冊かのぞいていた。
そこへ、もう一人少年がやってくる。
「どうしたんだよ」声をかけられて、ブルネットの少年は、「これ」と絵画から顔を逸らさずに答えた。
「なんで、暗いのに明るく見えるんだろうな」
「なに言ってんだ」
あとからやってきた少年も、ニット帽をそのままに隣に並んでまじまじとカンヴァスに見入る。
「本当だ。なんでだろう」
ほの暗い画面には、一人の女性がたたずんでいた。画材がそこかしこに置かれたお世辞にもきれいとは言えない部屋で、これまた散らかった机に伏せ、どうやら居眠りをしているようだった。
窓から射し込んだ一筋の陽光がなめらかな栗色の髪を照らしている。そしてその合間からのぞくふっくらとした頬はまるで瑞々しい白桃のようにつやめいていた。
これまで並んでいる絵画と比べて、鮮やかな色彩は格段に少ない。画面の半分は占めるだろう部屋の風景が、灰色やこげ茶、はたまた深い森のような緑で構成されているのだ。そこに、まろやかな淡い光が射している。朝日だろうか、それとも夕日だろうか。判断するのが難しいほどの淡さだ。まるで、そう、濃いカフェ・エスプレッソに一滴のミルクを落としたような。
しかし、それでいて、これまでのどの絵画よりもその光を鮮やかに感じさせた。
栗色の髪のつややかさも、その頬の透きとおるような肌感も、閉じられたまぶたを彩る、長い長い睫毛に宿る瞬きも。すべてが鮮やかに、そして繊細に、かつ情熱的に見るものの視界に飛び込んでくる。
「……太陽?」
ニット帽の少年が腕組みをしてすぐ横に設えられた小さなボードを覗き込んだ。
「太陽。そうか、太陽か」
赤らんだ頬を微かに上げて、絵画をまっすぐに見つめていた少年はリュックサックの肩紐をぎゅ、と掴んだ。
「なんだよ、なんでこれが太陽なんだよ」
友人の抗議の声も聞かぬまま、満足したのかもう一度絵画をじっくりとその目に灼きつけるように眺めると、彼はくるりと踵をかえした。
おい、待てよ、と言いかけた少年だったが、その部屋にグレーヘアーのひときわ大きな体躯の男性がやってくるのを見ると、慌ててニット帽を眉下までひっぱって、その場をあとにした。もちろん、去る前に再びふり返り、疑惑の太陽を睨みつけるようにしっかりと目を凝らして眺めてから。
「シモン」
その部屋の隅で彼らを見守っていた女性が、不思議そうな顔で彼らを送りだす男に微笑みかける。
微かにあどけなさを残した頬に優しいしわを刻み、栗色の柔らかな髪に光の綾を淡く揺らして。
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