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 おれがまだ保育園に入ったばかりで、兄さんは小学校に入る前か、入ったばかりの頃。夕方、二人で留守番をしていて、二階のベランダで遊んでいた時に雨が降り出した。おれはちょっとしたいたずら心で兄さんをベランダに残し、掃き出し窓の鍵をかけた。そうしているうちに雨は強くなり、雷までが鳴り始めたけれど、室内からあっかんべーをしながら兄さんをからかっていた。  最初のうちは「開けて!」と笑っていたが、雨と雷鳴が強くなるにつれ、明らかに兄の表情が変わり、いつまで経っても鍵の開かない窓ガラスを小さな拳で叩き始めた。「待って!開けるから!」と言っても聞かず、泣きながら叩き続けたガラスにひびが入り、握りしめた小指のあたりから血が流れ出した。  その時、暗かった空に強い稲光が差し、それまで聞いたことのないような雷鳴が轟いた。しばらくして帰った母によれば、近くの公園の木に落雷したという。ベランダでびしょ濡れの上、手から血を流して泣きじゃくる兄と、その横でただただごめんねを繰り返しながらもらい泣きする弟。おれがまぁちゃんだったら、ふざけていたとはいえ簡単には弟を許さない。なのに兄さんは、二人ともが母親に叱られたことから、『やっちゃったね』と笑って、それ以来雷を極度に怖がるようになったこと以外は、それまでと何も変わらなかった。  森の家から自宅まで数分。雨の中をわき目も振らずに走った。  玄関には帰ってないはずの母の靴だけがあった。「昭継?」と呼ぶ声が聞こえダイニングに向かうと、テーブルには二人分の食事の用意だけがあった。ずぶ濡れのおれを見るなりタオルを取りに風呂場へ向かう背中に「兄さんは?」と聞くと、 「あら、聞いてなかった? マサ今日はデートなんだって。さっき電話があって、テストの後に参考書を買いに付き合ってほしいって頼まれたんだって。そのあと一緒に夕飯も食べてくるそうよ」  へぇ……とだけ答えて先に風呂に入ると告げると、「食事、待ってるね」と母は微笑んだ。  向かいに座る母は、何が楽しいのか「ほら、マサって奥手っていうか、おとなしいじゃない」だの、「彼女は積極的な子なのかしら。そうやって引っ張ってってくれるコのほうが良いわよね」だの、けらけらと笑いながら話している。来春からは父親の転勤生活が落ち着くらしく、四月からは何年ぶりかで一緒に暮らせるわよとか、どれもこれもおれにとってはありがたくない話ばかり。母に悟られないよう、コップにお茶を注いでいる時も、テーブルの下で静かに拳を握りしめた。  さっき風呂で思い出した。兄さんのことで糾弾された後、森が吐き捨てるように言った言葉。 『自覚ないかもだけど、お前結構気持ちよさそうな声出してんだよ。女みたいなさ。主将も俺もヤリたいだけで、お前は俺たちが出して気持ちよくなるための道具なんだよ』  考え始めたら吐き気がせりあがってきた。  小さな頃から、一番身近にいたのが兄だった。  学校の帰りに車に連れ込まれた夜、今日あった出来事は一生誰にも言うまいと誓った。できれば思い出したくも考えたくもなかった。ただ一刻も早く兄が帰ってきて、一緒にテレビを観て笑ったりふざけたり、そんないつも通りの時間を過ごしたかった。  しばらくしたある日、いつも通り夜勤の母が用意しておいてくれたカレーを温めて食べ、どっちが皿を洗うか風呂の用意をするか話していた時、つけっぱなしのテレビに映る映画が目に入った。どこかの国の女優と、旅行の本ばかりを扱っている小さな書店で働く男が恋に落ちる物語だってことは後から知った。ぎこちなく向かい合っていたおじさんと女の人が、次に画面を振り返った時にはキスを交わしていた。そのシーンに照れたのか、『あ、あきつぐっ。水のおかわりいるか? 入れてくる』とあわてて兄が席を立った。おじさんの家の壁やドアはシミひとつなく真っ白で、まぁちゃんは「ふきふきしたらウチもあんなにきれいになんのかな?」「きれいだなー」と、恥ずかしさを隠すように関係ないことを口にしては笑っていた。  その時におれはわかった。  おれの体は、きれいじゃない。  あのことがあったせいでおれは汚れてしまったんだって。  お風呂に入ったりトイレに行った時にしか見えないところを、見知らぬ人達に触られて、それ以上にもっとひどいことをされた。毎日お風呂で洗っても洗っても、どうしても消えない何かができてしまった。まぁちゃんがいなかった日に。  おれ、もう……。 気づいたら、カレーが半分ぐらい残った皿には涙がぼとぼと零れ落ちていて、ガタンと音がして顔を上げたら、向かいにいたまぁちゃんが立ち上がって「あき、つぐ」と今にも泣きそうな顔でこっちを見ていた。 「どうした?」って聞かれても何も言えない。だから聞かれる前に「学校でイヤなことがあって。でももういいんだ」と言ったおれの肩を、まぁちゃんはぎゅっと抱きしめてくれた。雷が鳴った時におれがまぁちゃんにしてやるように、「大丈夫。あぁちゃんはいい子だから」って。涙も出ないぐらいに怖く、感じたことのない傷みを隠すように抱えて眠ったあの日のことが後から後から思い出されて、まぁちゃんの腕をぎゅっと握ったまま離すことができなかった。
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