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第5話
柚羽の検査の結果は特に問題もなく、予定通りの退院となった。花梨は姉を迎えに行くつもりで、やはり少しだけ店を抜けさせてもらうことにした。
出がけにお客様が来店したのだが、三つの花束を注文されたので美津子と二人がかりで対応した。それが終わってから急いで病院へ向かった。タクシーで柚羽を自宅まで送り、そのまま同じタクシーで店に戻るつもりでいたので、今日は自転車ではなく歩き……というよりは、全力疾走していった。
エントランスに着くと、母の雅美と柚羽がちょうどいいタイミングで出て来た。花梨は息を弾ませて二人に駆け寄る。
「お母さん! もう退院手続きしたの?」
「花梨、来てくれたの? 悪かったわねぇ。手続きが終わって、これから帰るところよ。この病院に転院して本当によかったわ、先生も看護師さんも優しくって」
元々柚羽のかかりつけだった医師は高齢のため、一年半前にクリニックを閉院してしまった。だからしばらくはその医師から紹介された大学病院に通っていたのだが、医師も看護師も高圧的であまり患者の話を聞いてはくれず、しまいには母が「あの病院にいたら治るものも治らないわ」と言い出した。だから家族総出でネットで調べたり知人に聞いたりした末、この桜浜総合病院に転院したのがちょうど一年前だ。
ここの医師や看護師は患者にはとても優しく、柚羽や母も大いに気に入り、今やすっかりこの病院が彼女のかかりつけとなったのだった。
「よかったね柚羽、じゃあタクシー呼ぼうか?」
「それがね、お迎えの車が来てくれてるの」
柚羽の持っている荷物を受け取りながら花梨が言うと、雅美が駐車場に目をやりながらそう答えた。
「迎え……? お父さんが来てくれたの?」
「違うのよ。……あ、来たわ」
雅美がロータリーを指差した。見るからに高級な輸入車が駐車場の出口からやってきて、緩やかな速度で花梨たちの前に滑り込んできたのだ。
「ちょっと……ハイヤーでも呼んだの!?」
花梨は目を見開いて口走った。その車は輸入車ではあるものの、白いSUVなので決してハイヤー然としていたわけではない。けれど花梨が思わずそう呟いてしまったのは、頭が混乱していたからだろう。
何せその車を運転していたのは、昨日シフォンベリーで一万円のアレンジメントをブラックカードで買っていった例の男だったのだから。
(ど、どうしてこの人が……?)
昨日とはまた違ったスーツで降り立った彼は、相変わらずの冷たい美貌を湛えていた。
全体的に後ろに流してある短めの黒髪は、自然な感じにブローされている。きれいな額にかかる前髪は暗褐色の瞳に影を落とし、ほのかな憂いをもたらしていた。スッと通った鼻筋や薄めのくちびる、スラリとした長身も併せて、凜とした美しさを全身にまとっている。
「桐生さん、お世話になります」
柚羽が彼に頭を下げた。
何がなんだか分からない花梨は、おろおろしながら柚羽に小声で詰め寄る。
「ちょっと柚羽! どうしてこの人が迎えに来てるのよ!? しかもどうして名前まで知ってるの!?」
「昨日お見舞いに来てくれた時に、名刺をいただいたからよ。お話していたら、その流れで今日たまたまお仕事がお休みだから迎えに来てくださるって言ってくださって」
いきり立つ花梨を意に介すことなく、柚羽はしれっと答える。
「だからって、こんなのご迷惑でしょ!?」
「あぁお気になさらず。お父様が今日は仕事で留守にされている上に、お母様がケガをされて今は運転ができないと柚羽さんから伺ったので、私でよければ送迎させてほしいと申し出たまでです」
薄い笑みを浮かべた彼は、車のハッチバックを開いた。
確かに母の雅美はフラワーアレンジメントの講座の最中に転倒して手首を捻挫している。だからこそ花梨は自分がつき添わねばと思い、仕事の合間に来たのだ。それなのに――
「桐生さん、この子は私の妹の花梨です。花梨、この方は桐生颯斗さん。昨日も言ったけれど、私が倒れた時に救急車を呼んでくださったの」
柚羽が二人の間に入って双方の紹介をする。水を向けられた桐生は、花梨に向き合うと、仕立てのよさそうなスーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、中から一枚を抜いて彼女に差し出した。
「桐生颯斗です。昨日は立派な花を作っていただいて、ありがとうございました」
「……」
花梨は少しの間たじろぐも、ここで何か反応しないと失礼であると重々承知してはいるので、そっと両手を出しておずおずと名刺を受け取った。
「――三浦花梨、です。先日は姉を助けてくださって、ありがとうございました。……それに、昨日はお花をお買い上げいただき、ありがとうございます」
頭をぺこりと下げつつ、手にした名刺に目を通す。そこには、
『桐生不動産開発株式会社ホテル事業部調査課 桐生颯斗』
と書いてあった。
(桐生不動産開発って……テレビでたまにCMやってる……?)
桐生不動産開発は日本屈指の総合不動産ディベロッパーで、国内外でホテルやオフィスビル、マンション、商業施設などを展開したりアセットマネージメントを提供したりしている。つまりは不動産全般を手広く扱う会社だ。
国内がホテル飽和状態と言われる昨今でも、世界各国にリゾートホテルやシティホテル、出張者向けの長期滞在型ホテルなどをニーズに応じて展開し、どこも日本人ならではのきめ細やかなサービスで人気を博している。
桐生はどうやらそのホテル開発部門に所属しているようだ。
(そっか……きっとホテルの仕事で世界中を飛び回っているような人なんだ。だからあのカードを……)
花梨は彼が航空会社系プレミアムカードを持っていた理由を、この瞬間理解した。
それにしても、見ず知らずも同然の男性にここまで世話になる義理も恩もない。しかもこの人物が本当に善人である保証もないわけで。
「すみません、ご厚意はありがたいのですが……」
警戒心たっぷりの花梨は、遠回しに拒否の意を紡ぎだす。すると――
「彼の身元は僕が保証しますから大丈夫ですよ」
後ろから声がして、皆が一斉に振り返った。
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