第一夜

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第一夜

 木の湿ったにおいが鼻をつく。  雨はところどころ屋根をすり抜け、朽ちかけた床をぽたぽたと叩く。近づきつつある神の音は、雨音とともに戸板一枚へだてて聞こえていたいびきをかき消し、ひらりと光った稲妻は、木戸の隙間から天井へ、一筋の光を送り込んでくれた。だが一瞬の光が消えれば視界は陰り、深まる宵闇は全ての光を塗り込めていく。その代わりに、たちこめてくるのはこのにおいだ。  かび臭い。  雨がもたらす湿り気は、あばらやのすみずみに忍び込み、夏の薄衣すら肌にはりつける。いつもなら床に流している髪を、今日は動きやすいように束ねているが、それすらもうっとうしい。四枚の木戸に向かって端座し、膝に置いていた手をくっと握ると、高子(たかいこ)はもう一度耳を澄ませた。  また、聞こえる。  人を、人とも思わぬような、耳ざわりな呼び方。はらわたをつかむような冷たい、声。それは部屋の隅からこちらに、じわりじわりとにじり寄ってきている。  止まぬ声に、高子は大きく息を吸った。 「やかましいっ!」  稲光と共に空を裂く。すると声の主は、気が抜けたように言った。 「聞こえてたんか、女」  声の主は、こちらとの間を取りつつ右手へと移ったらしい。床がぎしりときしむ。高子はじっと、戸板に向かい視線を落としていた。 「何べんも呼んだのに返事せぇへんから、てっきり聞こえてないのかと」 「耳ざわりじゃ」  男にしてはやや甲高い声が、ひとり言のようにぶつぶつとぼやく。先ほどとはうって変わった声の表情に、高子は少々気が緩んだ。 「女、こんなところで何してるねん」  高子はつんと上がった鼻先を背けた。 「ここはおれのところや。雨宿りするなら、一言断るのが礼儀やろ」 「……借りるぞ」 「はい!?」    あんぐりと口を開けた雰囲気が伝わる。高子はそれにかまわず、視線をうつろにし、戸板の方にやる。その方が、物音がよく聞こえるように思えるのだ。  ぎしり、と床が真後ろで音を立てた。声の主が右に、左にと揺れる。そのたびに、湿った木のにおいが漂ってくる。暗く、目の感覚があてにならないせいか、やたらにおいが気になった。  声の男が大きく鼻息をたてる。顔の横に垂らした髪が一筋揺れた。 「ええ匂いや。こんな匂いはめったに嗅ぐことないなぁ」  肌がさっと粟を立てる。高子は腰帯の辺りをさぐり、扇をつかんだ。今は少しの音も聞き漏らしてはなるまい。扇の親骨を指でなぞり気を取り戻すと、また視線を戸板に戻す。    と、そのそばに、かび臭さが漂った。 「んで、あの男は、おれに何の用があるねん?」  声は戸板の向こうに呼びかける。返事はない。「寝てるんか」とつぶやくと、高子は言った。 「あの方に用などない。今はただ疲れて眠っておられるだけじゃ」 「へ? じゃあ、お前ら何しに来たん? ほんまに雨宿りだけ?」  すっとんきょうな声に、高子はけだるそうに口を開いた。 「さっき言ったではないか。借りるぞと」  男が大きくため息をつく。かびとほこりの混じるにおいが、床からもわりと立ち上る。高子はそでを少し伸ばし、曲がりそうな鼻を覆った。  年は、同じか、少し上くらいだろうか。二十歳も終わりのころならば、兄と同じくらいか。だが、落ちつきのなさそうな性格は声だけでも伝わる。今も、戸板の辺りをうろうろしているのか、においがゆらゆらと漂う。これも我慢ならない。この男が動くたびに、においが強く濃くなる。高子はつい、いらだった口調になった。 「そなたはなぜここにいる」  ん、と男は返した。 「人のことを聞くならまず自分からやろ。女、名前は?」  ふんと鳴らし、今度は右に鼻先を背けた。 「なんやねん、その態度」 「そなたに名など名乗るつもりはない。どうせ、物取りかなにかのたぐいであろう」  男が舌打ちをする。だがすぐに、含み笑いながら、「物取りか」とつぶやいた。 「ほな、お前の着ているもの、もろうてもええねんな」  ぐうっとかび臭さが顔を覆う。とっさに体がのけぞる。なおも近寄る荒い鼻息を頼りに、高子は、眉間と思われるところにめいいっぱい扇を打ちつけた。 「痛い!」  木のにおいが飛び退く。高子は止めていた息を大きく吐き出した。 「女! おれの高い鼻を折る気か!」 「近寄るな。また打つぞ」  高子は、ふてくされたように鼻息を吐き出した男が、少し離れたところにどかりと座り込む気配を感じた。
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