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コンタクトも眼鏡もしてない、やわやわな視界が捉えた時刻は朝の9時。
今日は遅めの出勤だから、もうちょっとだけ寝よ。
あと…15分だけ。
異国満載のスマホ画面の向こうと、メンバー発表の結果を思い浮かべながら、贅沢に二度寝を決め込む。
♪♪!
LINEスタンプの音に二度寝を阻止された。
ミッキーマウスが手をあげて“GoodMorning!”とあいさつしている。
書いてないけど「ハハッ」って言ってる。たぶんね。
彼女のスタンプはいつもディズニーキャラクター。
しかも課金して買ってるやつだ。
いま彼女の住む世界は夜中の12時ぐらい。
もう寝ようかという時間に、俺に“おはよう”を言わなきゃならない時間と距離の壁もだいぶ慣れてきた。
返事を打とうとすると、さっきのスタンプよりもっとけたたましく俺のスマホが震える。
♪♪♪♪
ビデオ通話だ。
通話開始。
『おはよーっチヅルだよ!』
大好きな彼女。
バスタオルでわさわさ濡れた髪の毛を拭いている。
どーした、よっぽど急用かよ、可愛いな。
「知ってるよ。おはよ…」
『今スタンプ送ったら、すぐ既読になったから雅人さんもう起きてるのかなーって思ったの。今話せる?』
「んー。15分くらいなら。」
『あのね、来月18日から25日まで急遽日本に行くことになったよ!』
「ほんと?急だね。どうしたの?」
『クリスマス公演のメンバー、やっぱり落ちた。まだこれアウトって』
左腕をぐいっと持ち上げてカメラに向ける。
5月に怪我をして、10針縫った切り傷。
もうだいぶ薄くなってきたけど、この傷をさらすのがビジュアル的にだめって言われて、これで3公演連続でメンバーから落とされている。
「まだダメかぁ。厳しいね。落ち込んでる?」
『んーー。意外と平気かな。ビジュアル落ちだからね、スキル落ちだと凹むけど。しかもね……次は第一バイオリンで考えてるってこっそり言われたの!』
俺は画面の前で両手をぱちぱち叩いてみせる。
「よかったじゃん。で?いつ日本来るって?時間とれる?会えるよね?来るのに会えないとか、俺荒れるよ?」
『んとね。18日の午前中にそっちついて、25日の夕方の便で戻るの。来年アジアツアーをやるから、チェロの先輩とそのプロモーション。あと、高校の同級生でフルートやってる子がね、今度アルバム出すんだって。そのレコーディングのお手伝いもやって……あとはクラシック雑誌の取材とか、テレビのニュース番組のインタビューとか、先輩と一緒のがちまちま。』
「...いそがしそ」
『雅人さんほどじゃないでしょー。ミュージカルの舞台美術と、駅前再開発のコミュニティホールのデザイン、平行してるんでしょ?どうせ密かに新しいこともいろいろやるつもりでしょ。』
「まぁね。せっかく売り込まなくても向こうから仕事舞い込むようになってきたから頑張り時だよ。それで、どの辺で時間とれそう?こっちは絶対なんとかするから」
チヅルは画面の向こうでちゅるちゅるとミルクを飲みながら、ちょっと頬を赤らめて言い澱んでいる。
パックが異国スタイルだから風呂上がりの牛乳っていうよりミルク飲んでますって感じ。
頬を染めているのは風呂上がりのせいっていうより俺と話してるからって感じ。
絶対そう。
『あのね、自由になるのは24日の午後と25日の出発前までだけなの。ほんのちょっとでもいいの。会いたい。会える?』
そんな不安そうな顔しなくたって、俺だって何したって会いたいよ。
そこ空けるために今からの3週間寝れなくたっていいよ。
「なんとかする。クリスマスイブに一緒にいられるなんて初めてだね。」
彼女は唇をはむっと噛みしめて目をそらして、前髪をしゅるしゅる整えるみたいな仕草で照れくさそうにこくんと頷いた。
「……絶対、時間作るから。」
『ありがと。無理させてごめんね?』
無理するでしょ。いくらでも。
こっちは1年以上待ってんだよ。
付き合ってる期間の半分以上だよ。
「ちづる、どこか行きたいとことか、やりたいこととかあるの?」
んんんんんん...
天井をみてしばらく考えて、人魚姫が泳ぐマグカップでなにか飲みながらまた考えて。
『クリスマスに好きな人と行ってみたいところ...あるにはあるんだけど...YouTubeのおかげで最近日本でも知らないひとに声かけられるときあるから無理かなぁ…。どんなに早くても夕方からしか会えないとするともったいないし。』
「なに?言ってみてよ」
『いーよいーよ。ケンタッキー買って、雅人さんちでまったりする。あとコスプレしてプレゼント交換する。』
「は?俺もうそこそこおっさんだよ。コスプレなんかいやだよ。」
あはははは...コロコロと笑う彼女。
クリスマスが来たら、彼女に会える。
サンタクロースって本当にいるんだな。
「なんか考えとくね。いろいろ、いろいろしようね。あれやこれやね。」
『...えっち。』
「なんも言ってないだろ。」
『顔が。』
「ひどっ!俺もう行く準備しなきゃ。また連絡する。おやすみ」
『またね。行ってらっしゃい。』
通話が切れる。
一日が始まり仕事に出掛ける俺と、一日が終わり眠りにつく彼女。
今日からはいつも以上に忙しくなりそうだ。
♪♪
《言うの忘れてた。今日も大好き》
♪♪
さっきまで画面越しに見ていたチヅルのほんのり赤い顔を思い出して、俺も不意に赤くなってるのがわかる。
〈俺も大好き〉
俺のスマホは〈お〉の予測変換で〈俺も大好き〉が出てくるほど彼女仕様だ。
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