遠くに空

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遠くに空

同じ空の下にいるよ とか 見上げる月は同じだよ とか言いやがるけどさ。 俺が月を見上げてるとき、千弦の空は太陽だ。 天気だって気温だってまるで違う。 空までの距離を考えたら、たとえ地球の真反対だって近いもんだろ? って慰められてんのか。そういうことか。 想いが通じあって恋人同士になった相手は、予定通り翌日には遥か彼方へ帰っていった。 もっぱら毎日のLINEの画面が二人の場所。 子供の頃のこと これからやりたいこと さしあたって今乗り越えないといけない壁のこと 悔しかったこと 楽しかったこと やめられないくせ 今日食べたごはんのこと いろんな話をして、日々の暮らしで目にしたもの、心が動いたことを分けあって。 時差があるから返事はすぐには来ない。 自分のタイミングで勝手に呟いて、何時間かたつといつのまにか返事が来ている。 俺の夜中3時は彼女の夜6時。 俺の朝10時は彼女の夜中1時。 ビデオ通話で話ができるとしたら、俺にも彼女にも奇跡的に何もすることがない場合のこの時間だ。 月に3回話せれば多い方。 ほんの20分ぐらいしか話せないけど、俺が話したことに彼女が反応してくれる。 彼女が話したことに俺が笑う。 ちいさな画面越しのリアルタイムはまるでベッドの上で肌を重ねるあの行為みたいにゾクゾクするほど至福のひととき。 2回目のキスどころか、手も繋げない。 甘くて透明な声は電話というフィルタが通ると少し濁ってしまうし、氷みたいに真剣な眼差しもその瞳に俺は映らない。 ほんのりミルクみたいな香りがするハグも、南にしか咲かない花の香りがする柔らかくて長い髪にこの指を絡めることもできない。 それでも俺が千弦を想う気持ちは強くなる。 時間も、距離も越えていく。 彼女から送られてくる写真はどこを切り取っても絵になる異国の地。 タワーブリッジ、テムズ川、アビーロード、ウェストエンド、ベーカーストリート、...。 千弦は俺の仕事のアイデアにつながるかもしれないからって、たくさん写真を送ってくれる。 ちょっと立ち寄ったカフェの写真も、学校の写真も、スーパーで美味しそうなフルーツを見つけた写真も、俺の住む場所では切り取れない景色、見かけない色彩。 今日は天気予報がはずれた 今日は新しい靴をはいたら靴擦れした 大好きだったパンやさんがつぶれちゃった そんなどうでもいい報告と、必ず最後に添えられている《今日も大好き》という一言。 〈俺も大好き〉から始まる返信。 そして週に1度のペースで上がるYouTube。 アニソンも、邦楽も洋楽も、クラシックも、ゲームミュージックも、ジャンルはぐちゃぐちゃなのに、全部チーズピザこと俺の千弦のバイオリンの世界のアレンジに持っていく。 好きだと思う気持ちが溢れると同時に、俺も負けたくないという嫉妬心に似た感情が生まれてくる。 あの夜俺が歌った【ミカエル】の曲をチェロとピアノも含めた三重奏でアレンジした動画は、【ミカエル】のメンバーがSNSで推したから再生回数が桁外れだ。 演奏を終えたあと、弓を持つ指で唇に人差し指を当ててシーって言ってからウィンクしてフェードアウトするのは、たぶんあの夜を共有した俺に向けたメッセージだ。 ……って、深読みしすぎかもしれないけど。 俺と千弦は遠く離れていても繋がっていて、 昨日よりも今日、今日よりも明日、どんどんお互いへの想いを募らせていった。 次に会えるのは千弦の学校の夏休み。 【ミカエル】の次のシングルのレコーディング。 時期を合わせてYouTubeで再生回数の多い曲を中心にEPが配信されるから、リリースイベントも予定されている。 それが終わったらまたロンドンに戻り、秋から冬にかけての卒業公演が終わったら、千弦は王立音楽大学を卒業して、日本に帰ってくる予定だ。 15才で渡英して、長い戦いを経て帰ってくる。 サブスクの配信限定とはいえ楽曲をリリースして千弦の音は拡散したけど、千弦の夢はオーケストラで演奏することだ。 日本に帰ったら、N響とか日フィルとか、たくさんオーディションを受けてオーケストラで演奏するのが夢。 まるで映画を観に行くかのように気楽にオーケストラに触れてもらうカルチャーを作るのが夢。 氷みたいに凛とした透き通った目で未来と夢を見据える千弦は、その夢を叶えるために、俺の手の届く場所へ、声の届く距離へ来る予定だ。 ふたりそれぞれの夢への通り道が交差するまであと少し。 そのため、というばかりでもないが、仕事も波に乗ってきたから、俺はちょっと広めのマンションに引っ越した。 一緒に暮らしたい、そばにいて彼女の奏でる音楽を浴びながら、今までの距離と時間を急速で埋めたいと思っていた。 手を伸ばせば触れられる距離に。 いつでも声の届く場所に。 すぐ近い未来に。
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