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断る理由なんかないだろ。
【ミカエル】だぜ?
そもそも俺はコンペ出しまくって負けまくって、なりふりかまわず“お願いします”ってヘコヘコして仕事をもらうのがデフォルトだ。
“お願いします”って、言われることがそもそも奇跡に近い。
【ミカエル】の作り出す世界の後ろに俺の造った壁がそびえると思えば、まだなにも始まっていないのに武者震いがする。
でもその時の千弦は困ったような、悲しいような複雑な面持ちで穂高さんのことをまっすぐ見つめていた。
雲行きの怪しさを察知して、穂高さんは背筋を伸ばして笑顔を消した。
「五嶋さん、僕は君の音がもっと広く響きわたるべきだと思ってる。バンドのサポートなんて、本来君がやるべき音ではないとも思ってる。でも知ってもらうきっかけは、どんな形であれ必要だと、思うんだよね…。不都合はある?他からも声がかかってるとか?」
『いえ…。YouTubeご覧になった方から、よく声はかけていただくんですけど、本物の業界の方かどうかもわからないし、とにかくよく分からない世界なので全部お断りしてます。』
「じゃぁ、問題ないよね?引き受けてくれる…?」
千弦は穂高さんの顔をじっと見つめたあと、ふと視線を落とした。
『嬉しいお話なんですけど、私、まだ学生で。。』
「学校の許可は責任をもってこちらがとります。学校はどこですか?」
『王立...音楽大学です。』
小さな小さな声だった。
おーりつおんがくだいがく?
そんなんあったっけ?聞いたことない。
『はい、ロンドンの王立音楽大学です。わたし、小学校は公立だったんですけど、卒業するとき親元離れて、伯母さんのお家に住ませてもらって東京の音大付属中学に行って、高校からはずっとひとりでロンドンです。今は学校の休みを利用してこの番組に呼んでもらって一時帰国ですが、休みの間でも練習も試験の準備はあるので、本番が終わったら次の日の飛行機でロンドンに帰ります。だから長く日本にいることは……...ごめんなさい。』
穂高さんも俺も完全に落胆してしまった。
俺の落胆の種類は、穂高さんと比べると段違いに下世話だけど。
「そっか、、、ハードル高いな。でも、それでも掛け合ってみます。五嶋さん、学校との交渉は俺たちと会社の人間がやるけど、学校的にOKなら本気で考えてみてほしいです。バイオリンとアニメとかロックとかが重なるあの動画の世界を、もっとちゃんと、権利も守られる状態でたくさんの人に届けたいです。バイオリンの魅力も伝えたいし、日本のボカロやアニメもこんなにきれいな旋律なんですってことを、いろんなしがらみの壁を壊して、世界を繋ぐために伝えていきたいです。」
伏し目がちにしていた彼女が顔をあげて、穂高さんの目をじっと見ている。
彼女だってずっと動画の世界で生きていきたい訳じゃないだろう。
穂高さんの示したビジョンは、彼女が普段思っていることと、ニアリーイコールだったことを目だけで物語っている。
穂高さんが彼女に右手を差し出す。
彼女は控えめに右手をそっと添えるように出すと穂高さんもその手をぎゅっと握った。
「いいお返事、待ってるから!」
あ、ずるい。
【ミカエル】の穂高廉を炸裂して、仕事できる感出してスマートに彼女にさわってる。
いいなぁ…。
下世話だな、俺。
「あのっ」
俺もノープランで思わず立ち上がった。
「俺も、五嶋さんがもっと大きな舞台の真ん中で活躍してるとこ、見てみたいです。五嶋さんのバイオリンが加わったら、新しい【ミカエル】にも会える気がするし、俺は舞台のデザインで精一杯表現するから、是非一緒にサポートさせていただきましょう!ね?」
理由弱っ……。
しかもなんかあざとくてファン心理煽りすぎだし。
彼女は顔を真っ赤にして、微かに震える両手を出してきた。
冷たくて、細くて。
このそっと添えられた左手の指は、ずっと弦と戯れて弦にいじめられて弦に愛されている指。
最後にきゅっと力をこめて離れがたく手を離すと、ずっと冷たかった彼女の表情がほぐれて、とびきりの笑顔になるから、言葉も忘れて見とれてしまった。
これが彼女と、千弦と出会ったはじめての日。
俺が、前触れもなく、迷いもなく、落っこちた日。
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