一聴惚れ

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音楽番組の本番の日、リハーサルとは比べ物にならないぐらいの緊張感が会場に走る。 俺たちの仕事は納品すればそこで終わり。 すべてスムーズに動けば出番はない。 何かあっても番組のスタッフに対処してもらうやり方もあるらしいけど、俺たちの事務所のやり方としては、装置の造りが複雑なこともあって、不測の事態には自分等で責任をもって後処理を行うべく、すぐそばで待機しているのが通常だ。 リハーサルで初めて千弦のバイオリンを聴いてから、俺は寝る間も惜しんで千弦の上げている動画をひたすら見漁(みあさ)った。 初期の頃は、学校の教室とか、個室の防音室みたいなところで、手持ちのビデオで撮影している様子だった。 たまに撮影してる子がしゃべったり笑ったりしてる声が入っている。 それがだんだんレコーディングスタジオでの撮影になり、固定のカメラになり、屋外で撮っていたり、複数カメラで撮ったものを編集したり、ライブハウスやジャズバーで演奏しているものまで、どんどん本格的に表現の幅が広がっていった。 コメント欄は英語で溢れている。 ロシア語とかタイ語みたいな見たことない文字も時々ある。 アップされている数も多いし、いくら見ても見飽きない。 音はリハのステージで確認した通り、つきぬけて魅力的。 凛とした立ち姿も、滑らかな腕の動きも、演奏しているときの切羽詰まった真剣な表情と最後の一音が終わってバイオリンを下ろすときの笑顔のギャップも。 五嶋千弦という名の通り、五線譜の上を飛び回りいくつもの弦を操り、聖なる調べを奏でている。 もっとこの子を知りたい。 でも本番が終わったらロンドンに帰ると言っていた。 ロンドンに行く、 ではなく ロンドンに帰る、と。 さっきググったら、ロンドンは飛行機で12時間、時差は9時間もあった。 ほぼ真逆の世界。 ちょっと会いに行くとか、気が向いたら電話するなんてこともできないから、メールとか、LINEとか文字だけでいいから。 音楽の話も聞きたいし、彼女がどういう道筋をたどって今の彼女の音楽との関わり方に至るのかも知りたいし、音楽じゃない部分の彼女も知りたい。 【ミカエル】の演奏がおわったら楽屋にいるはずだから、会いに行ってその時に正直にこの気持ちを打ち明けてみようか。 もしダメだったらなんて考えてる余裕なんかない。 明日には遠くに行くんだから。 本番は会場で見るわけにいかないから、モニターで千弦を見た。 メインは【ミカエル】の方だったから、彼女ばかりが画面に映るわけではなかったけれど、クリスマスを意識した白いドレス、長い髪の毛には羽がモチーフになった飾りがふわふわとゆらめき、凛とした立ち姿、真剣な眼差し、目が追い付かないほどの速弾きに目を奪われていた。 穂高さんの伸びやかなボーカルで歌い上げる切ない恋心、腹の底に響くドラムのビートも歪んだギターの叫びも、バイオリンやオーケストラとは異なるものなのに、両方の良いところを相乗効果でスーパーセルとなって昇天していくような素晴らしいパフォーマンスだった。 でも、彼女はその日、【ミカエル】の楽屋にはいなかった。
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