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「職員室ってどこですか?」  男は表情を変えないまま、低い声でそう聞いてきた。手についた水滴を、制服のスラックスで拭いながら。  うわ、きったねぇ。ハンカチくらい持ってこいよ、高校生だろ。 「制服、濡れちゃいますよ。これ、使いますか?」  俺はそう言いながら、ポケットからハンカチを取り出し、男に手渡した。‥あざっす、と男は軽く会釈をして、躊躇することなく俺のハンカチで手を拭く。  はあ???まじで使いやがった。信じらんねぇ。大丈夫ですって、普通断るだろ?友達ならまだしも、初対面の人間のハンカチだぞ?なーにが「あざっす」だ。ありがとうございますすみませんくらい言えよ。常識だろ常識。体育バカ特有のお礼の仕方だよなあ、なるほどこいつ脳筋野郎か。 ‥‥うっ、それもそのまま返してきやがった。普通軽くでもたたんで返すだろ。幼稚園児かこいつは。 「‥職員室、探してるんですよね?僕、ちょうど今から職員室に行くんです。よかったら、一緒に行きましょう」  ぐちゃぐちゃのまま返された濡れたハンカチをたたみ、ポケットに入れる。相手のあまりのデリカシーの無さに、思わず頬がひきつりそうになる。俺の言葉に、男は「あ、はい」と気のない返事を返してきた。  てかそもそも職員室の場所が分からないとか、本当の馬鹿かこいつ。ああ、もしかして一年生か。背が高いから先輩かと疑ったけど、職員室の位置を覚えていないということは後輩だろう。だけど今はもう10月だぞ?さすがに入学して半年経てば覚えるだろ。俺は入学して次の日には全教室の位置を覚えたけどな。どうやら脳筋は悲しいことに運動以外のことは頭に入らないようだ。あざっす、という部活動で使う挨拶の仕方は覚えられても、教室の場所は覚えられない。なるほどな。笑える。  俺はこの男と並んで階段を降りた。  男は両手をスラックスのポケットにつっこみ、上履きの踵を踏んで、ダルそうに歩く。  相手からコミュニケーションをとろうとする様子もないので、俺も黙っていた。まあこんな奴と話したところでイライラするだけだし、話も合わないだろう。  両手をポケットに入れて、こういかにもダルいわー、って感じで歩く、こんなのがかっこいいとでも思ってんのか?まじでガキだな。思春期の中学生かよ。そのままつまづいて顔から床に滑り込んだら最高に面白いんだけどな。かっこつけてポケットに手なんかいれてるからだ馬鹿め、と笑ってやりたい。  階段を降りしばらく廊下を歩いた突き当たりに職員室はある。  ボランティア募集の紙や、献血のポスターが貼ってある掲示板の前を通りすぎ、職員室の扉の前までやってきた。 「ここが職員室。一階の一番端だって覚えておけば忘れないよ」 「あ、はい。‥あざっした」  男は眠たそうな声で感謝を告げると、扉を開け職員室の中へと入っていった。  ''あざっした''。はぁ。ありがとうございましたを言うのがそんなにめんどくさいか。言葉遣いで、その人間の質が分かる。あいつは、ああいう礼の仕方しか教わらなかったんだろう。惨めな奴。  俺は職員室の扉の横の机に置いてある名簿と日誌をとり、元来た廊下を足早に戻った。  廊下の角を曲がり、階段を上ろうとしたときだ。丁度階段を降りてきた林先生と鉢合わせた。   「おう、菊川、おはよう!」  林先生は俺を見ると、にかっと嬉しそうに笑いかけてくる。笑うと飛び出る大きな前歯が、まるでビーバーみたいだ。 「おはようございます、林先生」  俺も愛想のいい笑顔を浮かべて笑い返す。  林先生は52歳。担当教科は体育。しかし本当に体育の担当なのかと疑うほど腹が突き出ていて、あまり動いているところを見ない。授業でもいつも笛を首に下げて皆が運動している様子を眺めているだけだ。  熊のように大きくて太った体と、穏やかそうな表情。一見物静かで温厚な先生に見えるが、口を開けば「俺は昔陸上で関東一位だったんだぞ」「昔は俺だってモテたんだぞ」など本当か嘘かも分からない自慢話が止まらない痛々しい奴だ。  俺はそんな林先生のことがもちろん嫌いだが、どうやら林先生は俺のことをとても気に入ってるらしい。  俺を他の生徒よりもあからさまに贔屓しているし、俺に会うたびに嬉しそうにニヤニヤ笑う。  なぜか?  俺がいつも、先生すごいですね!さすがですね!もっと話を聞かせてください!と煽てているからだ。  こいつからの評価をあげるために言っているだけなのだが、馬鹿なこいつは俺が本当に尊敬し憧れを抱いていると勘違いしているらしい。そんなんだから結婚できねーんだよ、単細胞。   「どうだ、文化祭実行委員の仕事は進んでるか?前、仕事の効率いい進め方について、アドバイスしてやったろ?」  自慢げに林先生は俺を見下ろした。  いや、別にアドバイスしてほしいとも思ってなかったし頼んでもねぇからな。お前が勝手に評価してアドバイスしてきたんだろこの自己中ナルシスト野郎。なに偉そうにしてんだ。俺すごいだろっていうその顔、間抜けが余計目立つぞおっさん。 「はい、先生のアドバイスのおかげで前よりも順調です。ありがとうございます林先生。」  俺はいつもよりワントーン高い声で言い、林先生を見上げた。林先生が満足そうにフフンと鼻を鳴らす。 「そうかそうか、よかった。菊川は真面目でいい生徒だからな、俺もできることはなんでも手伝いたいんだよ。また何かあったらいつでもアドバイスするからな」 「はい、分かりました先生。先生って他の先生より相談しやすいんですよね。また何かあったら、よろしくお願いします」  林先生が今最も言ってほしいことを、言ってほしい口調で、言ってほしい表情で言ってみせる。単純なお前のことなんか、全部分かるんだよ。ほらみろ、すごい嬉しそうだ。うわーこの顔この顔、このアホっぽい顔。超気持ち悪い。 「そ、そうか菊川。まあ俺は昔から‥‥」 「あ、先生。すいません、そろそろ朝学習の時間なので失礼します」  林先生がまた何か長い話を始めようとする気配がしたので、俺は先生の言葉を遮り、軽く会釈をすると、階段を上った。  先生は話がとにかく長い。はじめは切り上げるタイミングが分からなかったが、長い間関わっていたら分かるようになった。相手が話す前にこちらから中断してしまえば、それ以上は話してこないんだ。 「菊川先輩、おはようございます!」 「菊川おはよう!」 「あっ菊川くん、おはよう!」  教室へ向かうまでの廊下で、人とすれ違う度に聞こえてくる明るい挨拶に、おはよう、と落ち着いた挨拶を返す。後ろから、「菊川先輩に挨拶しちゃった!」という甲高い声が聞こえてきた。  みんな俺にシッポを振っているのが見える。俺に会えたことを喜んでいる。よかったな、朝から学校一の優等生、俺に挨拶してもらえて、幸せだろ?まあ、俺はお前らの幸せなんてどうでもいいんだけど。
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