くちなしの香りに誘われて(梅雨)

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くちなしの香りに誘われて(梅雨)

(困ったな……) ぽつぽつと落ちてくる雨粒を見上げて、僕は途方に暮れた。 * それは、単なる思いつきだった。 なかなか進まない荷解きに嫌気が差し、梅雨の合間の太陽の下、僕は近くの山に繰り出した。 その山には、紫陽花の花が群生する場所があるとスーパーで小耳にはさんだ。 特に花に関心があるというわけではなかったが、ほんの少し、気分転換がしたかったのだ。 山へはバスで小一時間かかった。 今までは、バスにそれほど長い間揺られて移動することなんてほぼなかったから、それだけでもなんとなく新鮮な気がした。 はるか昔、子供の頃の遠足を思い出したりしながら、僕はあたりのひなびた景色にどっかほっとした気持ちを感じていた。 山には立札も何もなかったけれど、明らかに作られた道があったから、僕は迷わずそこを進んで行った。 山に来たのもすごく久しぶりのことだ。 何年か前に、友人たちとバーベキューをしにキャンプ場へ行ったことはあったけれど、それは車で行ったから、山を感じることは少しもなかった。 あれは、ただ、飲んで食べて騒ぎに行ったようなものだから。 一歩一歩、自分の足で歩いていくと、山に来ているのだということがいろいろなところから感じられた。 葉擦れの音、小鳥のさえずりや羽ばたき、頬を撫でる心地良い風…… それらは、思いの外、僕の心を浄化してくれた。 最初はこんな田舎に来ることになった運命に酷く落胆した。 いや、今でもそれは変わっていない。 早く、元の職場に戻りたいと思っている。 こちらにいる期限は三年。 それだけ我慢すればまた戻れるのだから、その間は別荘にでも来たと思って、こっちでの暮らしを満喫しようと無理やり決意した。 様々な想いを胸に、僕は山を登り続けた。 ずいぶんと登ったところで、僕はスーパーで耳にした紫陽花の 群生のことを思い出した。 この道がどこに続いているのかはわからないが、おそらくは展望台のような所ではないだろうか? 紫陽花の群生地は、きっとこの道ではなく、どこか道を逸れたところにあるのではないかと、ふとそんな想いが頭を過ぎり、僕は適当に道をはずれて歩き始めた。 世の中には、方向音痴と呼ばれる人が少なくないけど、僕の方向感覚は至って正常だ。 だから、迷うことなんて有り得ない。 そんな根拠のない自信が、僕を最悪な状況へ導いた。 いつの間にか僕はすっかり方向を見失い、森のような場所で右往左往していた。 (困ったな……) こんな時に限って雨は降りだすし、すでに日暮れも近い。 しかも、スマホの電波は圏外だ。 (どうしよう?) 獰猛な動物が住むような山ではないからそういう心配はないにしろ、真っ暗な山の中で一晩過ごすのかと思うとぞっとする。 なるべく歩き回らない方が良いのかもしれないが、かといってじっとしてる程、僕は太っ腹じゃない。 誰かに出会わないか…さっきの道に出られないかと、焦りながらあたりを歩き回った。 そんなある時…… 甘い香りが僕の鼻をくすぐった。 きっと、なにかの花の香りだ。 僕は、まるでミツバチにでもなったかのように、花の香りに引き寄せられた。 「わぁ…」 拓けた場所には白い花が群生していて、甘い香りはその花から発せられた香りだった。 むせ返るような甘い香りと、白い花の群生に、僕は圧倒されてただただその光景を呆然とみつめるだけだった。 「あ……」 どこからか突然に、小さな女の子が現れた。 まるで、違う時代から来たかのような絣の着物を着たおかっぱ頭の可愛らしい女の子だ。 少女は少しも恐れもせずに僕のそばに駆けて来た。 「ねぇ、君……」 僕の問いかけには答えず、少女は僕の目の前に小さな手のひらを差し出した。 そこには、白い花の花びらが一枚…… 「何?これを僕にくれるの?あ……」 少女は何も答えず、群生する花の奥へ消えて行った。 (……おかしな子だ……) ふと見ると、さっきの花びらがすぐ傍に落ちていた。 (あれ…?) 花びらは、別の場所にもまた一枚落ちていた。 なんとなく気になって、僕がその方向へ向かうと、その先にもまた一枚の花びらがあった。 まるで、なにかの目印のようにその白い花びらは、ある一定の間隔を開けて落ちていて…… 「あっ!!」 ふと、顔を上げた時、僕は山の入口に戻って来ていることに気が付いた。 (そんな馬鹿な……) もう頂上近くまで登ってたし、あれほど迷ったんだ。 こんなに早く降りてこられるはずがない。 僕の理性はそう言うが、現実に僕は麓にいる。 あの白い花びらもどこにもない。 狐につままれたような気持ちを胸に、僕はとりあえず家路を急いだ。 (どういうことだったんだろう…?) 安心はしたものの、もやもやとした気分はやはり晴れなかった。 ようやくたどり着いた我が家… 玄関の扉を開くと、そこには白い花びらが一枚落ちていた。 ~fin.
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