響け、あの遠いところへ

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「これ、ありがとね。本当に助かったよ」  勝利の余韻にひたる間もなく、控え室に戻ったブラスバンド部員たちはあわただしく帰り支度をしていた。  千秋はそっとクラリネットをなでて、リガチャーを彼に返す。 「それ、おまえに貸しとく」  3つに分解したクラリネットにスワブを通しながら、茅野くんは言った。千秋は目を点にする。 「え……でもこれ茅野くんの……」 「俺、ドイツ留学することになったから。預かってて」  その言葉に心臓が跳ねた。にぎやかな控え室で彼の声は静かに響く。 「ドイツ……留学?」 「うん、念願叶ってやっと行けることになったんだ。出発は明日、いつ帰ってくるかは決めてない」 「そんな……」  視界が涙でにじんだ。怒ってばかりで怖いと思っていた茅野くん、本当はクラリネットを愛する優しい男の子だと、やっと気づけたのに―― 「日本に戻ってきたら返してもらうからさ、持っててくれる?」  そう言いながら彼はふいと横を向いた。黒い髪がシャープな輪郭にかかる。千秋は胸がはち切れそうになりながら必死でうなずく。 「わかっ……たよ……これは私が預かっておぐ……ううう」  熱い涙が喉の奥まで流れていった。ちゃんと答えたいのに、とめどなく涙があふれかえる。胸は苦しくて、でも彼は優しく微笑んでいて、手に持ったリガチャーはひんやりと冷たかった。  にじむ視界の中で、茅野くんが「泣き虫だな」と笑った。 「おまえが誰よりもクラリネットを愛してること、俺は知ってるから。しっかり練習に励めよ」  先生のようなことを言って、千秋の髪をぽんぽんと叩いた。その手は大きくて、優しくて、あたたかだった。  力強く微笑んで、彼は真っすぐに千秋を見た。涙でぐしゃぐしゃになった顔を手でぬぐう。  茅野くんが帰ってくるまでがんばろう。もっと上手になって、このリガチャーでクラリネットを響かせよう、そう心に決めた。                 ***  春の選抜高校野球。三塁側のスタンドに立った千秋は、クラリネット片手に一塁側アルプススタンドの席を見つめた。  応援団の声援を聞きながらクラリネットを吹く。  遠い異国にいる彼のために――                            (おわり)
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