響け、あの遠いところへ

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 行き交う人と何度もぶつかりそうになり、そのたびに彼は「すみません」と言ってキャップをはめたクラリネットを胸に抱える。けれど千秋の腕は離さない。  控え室の前でようやく立ち止まり、ゼエゼエと息をしていると、試合開始のサイレンが鳴り響いた。球場中に響きわたるその音が心臓をつらぬいていく。  茅野くんは「いそげ」と言って控え室に入り、自分のリュックをあさり始めた。千秋は呆然とその姿を眺める。 「これ使え」  そう言っていつも持ち歩いているクラリネットの備品入れから小さな透明のケースを取り出した。  それはクラリネット用のリガチャーケースだった。スポンジをひいたその上に、銀色に輝くリガチャーが乗せられている。  天井から地響きのような音がして、対戦相手の応援歌が始まった。  彼は「ちょっと古いけど、まだ使えるから」と言って、戸惑っている千秋の手のひらにケースを乗せた。「本当は使いなれたものの方がいいけど、見つからないならそんなこと言ってられないしな」とつぶやく彼の顔が至近距離にあることに気づいて、我に返る。 「ダメだよ……これは茅野くんのだから」 「いいから使え。試合始まったんだから、さっさとしろ!」  彼はケースからリガチャーを取り出すと、千秋の目の前に突きつけた。いくら首をふっても引き下がろうとしない。  頭上に響く相手チームの応援歌を聞きながら、茅野くんがここにいるのはまずいんじゃないかと思った。どんな悪条件でもぶれない彼の演奏をみんな頼りにしている。ここで引き留めてちゃいけない―― 「ありがとう、でも受け取れない。私はいいから茅野くんは応援席に行って」  そう言って突き返すと、彼は不服そうな顔をした。 「俺のリガチャーを使うの、そんなに嫌なのか」 「えっ……そうじゃなくて、私なんかが使うのは申し訳ないから……」  言い訳をしていると、彼は「貸せ」と腕をつき出してきた。何のことかわからず首をかしげると「おまえのクラリネットだよ!」と叫んだ。  あわてふためいてケースごと持ってくると、彼はそれを丁寧に組み立てた。銀色のリガチャーを突きつけられたのでこわごわ受け取り、千秋のマウスピースに装着させる。  もしかしたら茅野くんみたいな音色が出せるかも、と期待をこめて吹いてみてたが、いつもの間の抜けた千秋の音だった。  すると彼はクラリネットをふんだくって、リガチャーのネジの部分をじっと見た。 「きつく締めすぎなんだよ。このリードなら少し下の方がいい。マウスピースが髪の毛1本分、見えるくらい」  そう言ってリガチャーを閉め直した。両手で楽器をかまえると、おもむろに吹き始めた。  自分が使っていた楽器とは思えないほど華やかな音色が奏でられた。弱音(じゃくおん)から強音(きょうおん)へのダイナミクス、口腔内を広げたりせばめたりして音程を変えるテクニック、タンギングから指使いひとつにしても、まるで別物の楽器だった。  彼は軽やかにクラシックの名曲を吹くと、ぺこりとお辞儀をした。 「わあー! すごいね、びっくりしちゃった!」  そう言って拍手をすると、彼は少し照れながらハンカチでマウスピースとリードをぬぐった。「行くぞ」と言って何気なくクラリネットを突き返してくる。 「えっと……これ、私が吹く……」 「あたり前だろ、何のためにリガチャーを貸したんだ」 「えーっと……茅野くんが吹いたクラリネットを私が吹く……」  あらためて口にすると、燃え上がりそうなほど顔が熱くなった。それを見た茅野くんが「わっ悪かった! 楽器のメンテで吹いてもらうのはいつものことだし……でもおまえは嫌だよな!」とうろたえながら何度もハンカチでマウスピースをこすった。  なんだかおかしくなって笑ってしまった。 「マウスピースはやわらかい素材でできてるから、ごしごししちゃダメなんでしょ?」 「え? ああ……うん」 「茅野くんが言ったんだよ」 「そうだっけ」  眉を下げてとぼけたので、笑いが弾けた。  真上のスタンドから大歓声が響きわたる。この上はちょうど一塁側のアルプススタンドだ、1回ウラの攻撃が始まる―― 「行くぞ!」  そう言って茅野くんはビュッフェ・クランポン社のクラリネットを取り上げた。あわててケースを閉じて、彼についていく。  彼は出入り口で一度立ち止まると、千秋の手を握って走り出した。
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