16人が本棚に入れています
本棚に追加
〜男が怠惰に墜ちるまで〜
男は学者を目指していた。花を愛していた。小さい頃、故郷の聖なる丘で母親と見た小さな紅色の花を忘れる事ができずにいたが、魔王軍との戦いが始まると、その蜜が魔物の毒消薬によいと刈り尽くされ、絶滅の危機に瀕してしまった。
手元には、こっそりと小袋に詰めた種だけが残った。いつかこの花を蘇らせると母に、教会の大十字に誓ったのだ。
大学に入学するために、寝る間を惜しんで勉強した。成績優秀者は入学金が免除される。男は試験勉強に必要な書籍を求め、帝国図書館のある首都へと移り住んだ。そこには温かな干し草の匂いも、柔らかなせせらぎの音もあるはずがなく、人と人が衝突し合う焦燥感だけが常に渦巻いていたのであった。
そんな街の空気に、男は疲れを見せ始めた。そもそも自然物が大好きで大学に入学しようとしているのに、今の暮らしは正反対の環境だ。太鼓橋から覗き込んだ水路は、人が泳ぐ事が出来ないほどに汚染されている。勿論魚など泳いでいる筈もなく、ボウフラだけがプカプカと浮かんでは沈んでを繰り返していた。
ため息を吐く日々。だが今日と明日、現在と未来は、まるで決着のつかない鬼ごっこのように、追っては逃げ、逃げては追い、どんどんと先へと進むのだった。
…
……
………
立ち止まることが許されない都会の雑踏と同じように時は過ぎ、男は受験戦争を無事にやり過ごして、大学の講義室に通う日々を勝ち取った。
そんな彼の心を唯一癒してくれていたのがお茶である。朝の目覚めにダージリンを、大学から帰宅すればアールグレイやセイロンティー、新鮮なミルクが手に入った日には茶葉を煮出して、それだけのために窯元を訪ね自分で轆轤を回したミルクボウルに注ぐ。茶葉の専門店にも足を運ぶほどで、オリジナルブレンドの故郷の香りがする特別な茶葉を買っては、ご機嫌な様子で家路を急ぐのであった。
そんな彼が大学に籍を置いて三年目の秋、シラバスに面白い講義を見つけたものだから飛びつかない筈がない。
【嗜好品に関わる経済学】
その内容には『紅茶』の二文字が記されていた。これは是非学びたい。男の向学心に火がついた。
さて、待ちに待った講義の初日。聴き終わった男はさぞ目を輝かせていたことだろう。
男は大学からの帰路に買い物をし部屋に戻ると、テーブルの上に置いてあったティーカップを床に叩きつけて粉々にしてしまった。世界にひとつだけしかない、オリジナルのミルクボウルを、茶葉を保管してある棚に投げつけて貴重な茶葉を台無しにするし、もう彼の奇行を止められる者は何処にも見つかりそうでなかった。そして紙袋から液体の入った瓶を取り出すと、コルク栓を引き抜き中身を一気に喉に流し込んだのだ。
ぶどう酒である。
喉に僅かな刺激を覚えると、今度は胃がかあっと熱くなる独特の症状に陥る。身体が浮くことに身を任せて良くなる。
しばらくすると目の前がボヤッとかすみ、頭が程よく回転する感覚を覚えた。これが快感であった。何も考えられない、考える必要がない。少しの間は腐臭の漂う都会の喧騒から逃げ出せたつもりになれたのだ。
男に何があったというのか。
それは楽しみにしていた講義の内容にあった。
講義が始ると教授は挨拶の次の一言目に
「みなさん、今はティータイムです。チョコレート菓子をつまみながら、紅茶を飲んでいるところを想像してみて下さい。」
と学生に問いかけた。
はて、これが何の勉強になるというだろう。
「では、そのチョコレートはどこから来た物でしょう。」
なるほど。こうやって物の流れを追うことで経済を学ぶのか。大好きなお茶の事が関わっているなら難しく考えずに勉強出来る。
「はい、先生。」
「どうぞ。」
「隣国の高原の国からやってきます。」
「そうですね。高原の国には沢山のチョコレート工房があります。王室のチョコレートもこのいくつかの工房から献上されて来ますね。しかし、そのチョコレートを作るために使われる原材料はいったいどこからもたらされているのでしょうか。」
静まり返る講義室。そんな事考えたこともなかった、と皆が頭を抱えているようだった。
優秀な学生が挙手する
「はい、主な原材料は遥か南の国からやってきます。カカオ、サトウキビ。どちらも比較的気温の低い帝国周辺の国家では栽培出来ません。」
ざわざわ…。
誰もそんなこと考えたことがなかったかの様に、お前知ってたか、のヒソヒソ話で講義室はざわめき立った。
「そうですね。カカオ、砂糖、コーヒーなどの嗜好品の原材料は栽培が難しく大変貴重であり、また長い距離を輸送されて来るため高価になってしまいます。そのために困った事が起こっているんです。」
毎日のお茶の時間に欠かせない物。それにいちいち困り事がつきまっとっていたとは。
「できればこれを安く沢山作りたい、と誰もが思いますよね。そこで我々帝国周辺の国家は、嗜好品の原材料を栽培できる地域をどんどん植民地化しているのです。勿論、それに応じない場合は武力をもってしても、です。」
講義室に響く騒めきは更に大きくなった。男も寝耳に水といったような、予想だにもしないショックに思考が一旦停止してしまった。
「そして自分たちは汗を流さず、現地の住民たちを奴隷としてこき使い、畑を耕させているのです。勿論、紅茶に使われる茶葉も同じです。」
自分の好む紅茶と菓子が、実は戦争と奴隷労働がもたらした富だったとは、今の今まで全く知りもしなかった。ゆったりとティーカップを傾ける時間が平和の象徴などと勘違いしていた自分を恥じた。
「そして奴隷に刈り取らせた富を、商社が取引し海運会社が輸送する事で、大金を儲けています。私たちはその最後の姿だけを見て、銀貨と交換に商品を手に入れているんですね。」
もう何も耳に入ってこなかった。この場から早く逃げ出したい。
だから、男は今までに一度も口にしたことのない酒を浴びるほど飲んで、無茶苦茶になってやろうと思ったのだ。
酒に飲まれて気を失ってからどれくらい経っただろうか。目覚めてみると、ザアザアと激しい雨の降る音がした。頭の芯がズキッと痛む。幸い今日は休日だ。酒の瓶は空だし、外出する気にもなれない。とりあえず新聞でも開いてみようかと思い、郵便受けから引っ張り出したところ、一枚の広告が滑り込んできた。
【魔法生物研究所〜求・新卒研究生】
なるほど、生物学と魔法の融合か。
男は閃いた。自分の求めていたものはこれかも知れない。実は、昔取っておいたあの丘の花の種を大学の研究室で幾つか培養してみたのだが、ひとつも反応がなかった。推論として、聖なる丘にある何かの要素が必要なのではないかと考えたが、それはもしかしたら魔力のようなものではないだろうか。
男は早速、広告にあった研究所に連絡を取った。すぐに面接の約束を取り付けた。
聖なる丘に生息した紅色の花の件は、生物学の世界では有名だった。その研究の第一人者とあっては、研究所も断る理由はなかった。男はその次の春に郊外の研究所に異動できたのだ。
研究所には十分な魔力を供給できる装置が完備されていた。この環境でこの種に十分な魔力を与えながら培養できたなら、きっと発芽させるくらいには至るだろう。
さてどんな感じのラボがあるのかと興味本位に見学をして回ったのだが、怪しげな動物を培養している連中もいるし、土や石でできた像や機械の身体に魂を宿らせようと必死に研究を進めるチーム、もちろん動植物の生態について研究するグループもあった。
人工的に魔力の供給など出来るのか、と疑問に思い魔力炉の見学を申し込んだり、潜入を試みたりしたが、その中枢は絶対立ち入り禁止区域となっていて確認するのは不可能だった。一度、何か資材を運び入れている現場に出会したが、細長い箱を幾つもリレーして暗い部屋に押し込んでいた。ついそのうちひとつを落とした者がいて中身が溢れたが、それは虹色に輝く鉱物だったと記憶している…。これを炉か何かにくべているのだろうか。
男は紅色の花に関して出来る限りの研究を進めた。仲間にも恵まれた。
培養液に魔力成分を含ませてみたり、光源に魔力線を幾ばくか混ぜてみたり…。そんな苦労が実を結び、とうとう種子はその硬い殻を破り、双葉を芽吹かせた。ところが…
それ以上成長する種はひとつもなかった。苗床が悪かったのか、根腐れを起こすもの、逆に根だけをグングン伸ばし、枝を伸ばす事をすっかり忘れてしまう苗。どれも、結果として悪くはないかもしれない。しかし、これでは花が蘇ったとは言えない。残りの種にも数に限りがある。
…
……
………
研究が3年目に差し掛かろうとしたとき、男は研究室長の呼び出しを受けた。確かに男の研究は素晴らしい。成果も見えつつある。だがしかし、これ以上組織として結果を待つわけにはいかない、と。つまり、事実上解雇を言い渡されたのである。
男は路頭に迷うことになった。退職金を受け取り、しばらく食べていける金はあったが、今後のことを考えるとそれだけではやっていけない。臨時の出費もあるだろう。
肩を落としている男が、ふと歩道に面したガラス戸に目をやる。見覚えのあるイラストが描かれた貼り紙に気がついた。
〜居眠り草…150束…明日中に用意出来る者募集〜
男は平然と、へえ、世の中にはこんな仕事もあるんだな。などと気にしなかったが、もう一度貼り紙を見て顔を青ざめた。
なんと、その報酬が今、男に支払われた退職金の三倍もあったのだ。しかも…長らく植物の研究をして来た男。この植物の最も近くにある群生地を知っている。
まさに男のために用意されたような仕事ではないか。
男はこうして、冒険者ギルドの門を叩いたのであった。
最初のコメントを投稿しよう!