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外界からエレベーターで地下の基地へ戻ってきたラナは、エマージェンシースーツのまま殺菌ルームを通り、メインルームに入ってやっとヘルメットとスーツを脱いだ。
「どうだった、地表は」
声に顔上げるとコンソールパネルの前にいたアリナが近づいてきていた。ぱっちりとした目に灰色がかった淡いオレンジのなめらかな肌。とても美しい。
ラナは苦く笑う。
「ひどいものだよ。土がえぐれて植物は倒されていた。あれではもう食料を生み出すための栄養源は完全に流されてしまった」
「飢えるのも時間の問題だな」
アリナが肩をすくめた。
こんな異常事態にもアリナは取り乱さない。ラナは叫び出したいほど動揺しているにもかかわらず。
「食料はあと何日分?」
「二人で一週間というところかな。外の状態次第で製造装置が働いてくれればもう少し作れる」
それを聞いてラナは絶望的な気分になった。気がつけばエマージェンシースーツを消毒用ロッカーへ掛ける手が止まっていた。投げ捨てたい衝動に駆られた。いや、これにはまだお世話になる事があるだろう。思い直して丁寧にしまう。
「ラナは今日の分の食料をまだ食べていないだろう? 食べておしまい」
アリナが食料庫へ入る。
「アリナは食べたのか?」
「ラナが外界に行っている間にね」
一日分の食料パックとわずかな水が入ったボトルをアリナが持ってきてくれた。
「どうぞ」
情けなくも腹の虫が鳴いた。
「ありがとう、アリナ」
ラナはアリナの唇にキスをした。
アリナが眉をひそめる。
「ラナ、悪い癖」
「親愛の情を表現しているつもりなのに」
しょげたラナはおとなしくテーブルに着き、パックを開ける。
外界の水中に存在する栄養源を固形化したレーションと、濾過された水。それがラナたちの食料だ。
だが、雨期に入って大量の水で栄養源は流され、水は泥で汚染された。レーションの製造はおろか、泥で濾過機の性能が低下し水も十分に精製できなくなりつつある。
ぽそりっと音を立てて、レーションをかじる。これ以外の食べ物を知らないラナには最上の食べ物だ。アリナはラナより年長なので、もう少し栄養価の高い物を食べた記憶があると言っていた。
「これからどうなるんだろう」
ラナは不安を口にしてしまった。アリナが微笑む。
「心配はいらないよ。何とかなる。実際何とかなってきたから、このアリナは生きてる」
「今よりひどいことも越えてきたのか?」
黙ってアリナが頷いた。
「そうか……」
「雨がやめば栄養源も繁殖し、栄養濃度も上がる。そうすれば食料生産率も向上する」
「アリナがそう言うのなら、そうなんだろうけど……」
ばんばんとアリナが手を叩いた。
「さ、悩んでいても仕方ない。ラナは早く食べておしまい。アリナは横になるよ。起きていてもやることがない」
おどけた風に笑うアリナにつられて、ラナも笑う。
「おやすみ、ラナ」
「おやすみ、アリナ」
ドアが左右に開いてアリナが出ていった。
アリナが去ってひとりになるとまた不安がこみ上げてきた。空になったレーションのパックを捨てようとしている手は震えている。慌ててパックを手放した。
エレベーターで居住階に降り、自室に戻っても不安が止まらない。雨はいつやむ? それまでの食料は? 水は?
ベッドに腰を掛けて自分の体を抱きしめる。それでも震えが抑えられない。
(アリナはどうしてあんなに強いんだろう)
たまらずラナは立ち上がった。
ラナの部屋から空き部屋を二つおいた隣がアリナの部屋だ。
ドアの前でためらった。厳しいアリナは夜の訪問を好まない。ラナの鼓動は限界まで速くなっている。
(助けて、アリナ)
センサーがラナを認識した。
軽い音を立てて、ドアが左右に開く。
アリナは眠っているようだ。ベッドからは何の反応もない。
(アリナ……)
唇を噛み、迷う。が、ついにラナは室内に足を踏み入れた。
ベッドに取り付けられたナイトランプが淡くアリナの整った美しい顔を照らしている。
ラナはベッドサイドに跪いた。
「アリナ……」
眠りが深いのだろうか、反応がない。呼吸も静かだ。
孤独がラナを襲った。思わず名を呼んでしまう。
「アリナ? アリナ」
「ん……、ラナ?」
眠そうなアリナがベッドに起き上がった。
「ごめん、アリナ。何だか急に怖くなって……」
アリナの指が頬に伸びてきた。いつの間にかこぼしていた涙を拭われた。
「おいで、ラナ」
手を広げたアリナの胸にラナは飛び込んだ。勢いで、二人ともベッドに倒れ込んだ。
裸で触れあうと、少しひんやりしているアリナの体。抱きしめて唇を奪う。
アリナはいつも優しい。ラナの欲望を一度も拒むことなく受け入れてくれる。
「ラナには……あなただけだ、アリナ」
アリナの体を突き上げながらラナはささやく。
アリナは激しく喘ぎをもらしていて、言葉は返ってこない。
「アリナ、アリナ……」
欲望がきわまってきたがアリナを傷つけたくない。
そんなとき、アリナの腕がラナの首に回された。
「ラナ、もっと動いていいよ」
ラナは驚いた。いつものアリナならこんなことは言わない。黙ってラナの判断に委ねるだけだ。
「嫌じゃ、ないのか?」
アリナが微笑んでいる。
「嫌だと思ってるとでも?」
「アリナ――」
「嫌なら始めから許さないよ、特別なラナ」
ラナはアリナにキスを落とした。
「アリナ、アリナ、好きだ」
「アリナもだよ、ラナ。ラナの正直なところ――そういうとこ、好きだ。さあ、アリナをいかせて」
アリナの脚がラナの腰に回る。
ラナは夢中で腰を振った。
今までにないほどアリナが嬌声を上げる。シーツを乱す。頭を振って快感に震えている。
「ああ、ラナっ」
「あ、アリ、ナ――」
目の前がスパークした。
ラナはまだ息を乱しているアリナの顔をのぞき込んだ。
「アリナ……愛してる」
アリナは目を細めて微笑っている。決して同意は返してくれない。
その代わりとでも言うようにアリナの唇がラナの唇に押し当てられた。
それは初めてのアリナからのキスだった。
ラナはアリナの体をかき抱いた。
アリナがラナにも毛布を掛けてくれた。
「今夜はここでおやすみ」
ラナは目を瞠った。
「許してくれるのか?」
「眠れなかったんだろう、不安で? 体が震えてる」
ラナは自分の両手を見た。確かにアリナのいうとおりだった。
「休もう。アリナたちにはそれが重要だ」
「ありがとう、アリナ。おやすみ」
「安心しておやすみ、ラナ」
ラナはアリナの腕の中でその体温を感じながら、すぐに眠りに落ちた。
しかし、次の日からアリナの部屋には鍵が掛けられるようになった。
ラナはアリナに詰め寄った。
「どうして鍵をかけるんだ?」
「一人の時間が必要だからだよ」
「もう、もう一緒に寝てくれないのか?」
アリナがはっきりと頷いた。
「あれが最後」
「なぜ……」
「食料が尽きそうな今、さまざまなことを考える時間とエネルギーは大切にしなくてはいけないから」
「アリナ……」
ラナの頬を涙が伝うと、アリナはいつものように少し冷えた指で拭ってくれた。
優しいアリナ。でも厳しい年上のアリナ。たくさんのことをラナに教えてくれた。
アリナの持つ膨大な知識の中で、ラナの存在はどの程度なのか。その疑問をアリナに問うことは恐ろしかった。
悶々とした二日間が過ぎた。今日も地表を探索してラナはベースに戻った。いつもと同じく食事をし、レーションの包みやボトルを片付けたラナにアリナが言った。
「アリナはそろそろ時間なんだ」
アリナの言葉にラナは怯えた。
「何の時間?」
「命の時間」
ラナの背筋を寒気が駆け上った。
突然アリナの体が、不自然に折れ曲がった。上半身と下半身が別の方向に行ってしまう。駆け寄ったラナがかき抱いても体は伸びて――
伸びて?
違う。
「ラナ、ベッドに運んで」
力なくアリナが微笑んだ。
ラナは怯えつつも、アリナの体を抱きかかえる。正しくは胴で二つに分かれてしまったアリナの体を重ねて、だ。
ラナの部屋でラナの上半身と下半身を寝ているように並べる。服は脱がせるように頼まれた。体は刃物で切断したのではない。「切り口」もなめらかで美しい灰色がかった淡いオレンジ色をしている。
荒くなった息の下からアリナが言った。
「ヘッドボードの裏側に、緑のスイッチがあるから、それを押して」
気づかなかった。確かにスイッチがある。それを押すとベッドの足元の方から透明なスクリーンがせり出してきた。
「アリナ?」
「愛しているよ、特別なラナ」
スクリーンはもう一度スイッチを押しても、手で押し止めようとしても、止まらなかった。ヘッドボードに到達すると、ベッドを完全なカプセルにしてしまった。続いてカプセルの中に水が流れ込み始めた。
これは何だ?
ラナは混乱する。
充填された水の中にアリナの笑みが揺れた。そして目が閉ざされた。
「アリナ……アリナ……」
ラナはその場にへたり込んで声を上げて泣いた。しかしもう涙を拭ってくれる人はいなかった。
ひとりになったラナはいつものように外を調査しに出かけ、レーションを口にし、水を飲み、眠った。毎日同じことの繰り返し。繰り返していれば、いつかまたアリナとの日々が戻ってくるような、そんな気がしていた。
そんな日は来ない――そのことをラナはわかっていた。
アリナが眠ってから、食料庫を調べた。アリナが言っていた数より、レーションは多かった。アリナはいつからか食事をしていなかったのだ、ラナのために。
三週間が経過した。
節約していたレーションがついに尽きた。後は水で繋いでいくしかない。
突然アラームが鳴り出した。慌ててコンソールパネルをのぞくと、ランプが点灯しているのはアリナの部屋だった。
ラナはためらった。
アリナが眠りについて以来、あの部屋には足を踏み入れていない。しかしアラームは鳴り続ける。ラナは決断するしかなかった。
三週間ぶりのアリナの部屋は何も変わりがないように見えた。
アラームの対象はカプセルと化したベッドだということは確認してきた。
ラナは唾液を飲み下してカプセルに近づき、足を止めた。
何かがおかしい。
ラナは慌ててカプセルに駆け寄り、のぞき込んだ。
カプセルの中の水は消えていた。
中には二人のアリナが抱き合うように眠っていた。とても美しい灰色がかった淡いオレンジの肌のアリナたち。
あの日押した緑のスイッチを再び押す。
透明のスクリーンがゆっくりと開き、カプセルはベッドに戻った。
二人のアリナが目を開けた。お互いを見詰め合い、微笑んだ。
それから一人がラナを見て、もう一人をつついた。もう一人もラナを振り返った。
二人は同時に微笑んだ。
「おはよう、ラナ」
「ラナ、おはよう」
その瞬間、ラナの中で何かの映像が一気に流れた。
意識が突如クリアになった。
ラナは言った。
「アリナはラナじゃない。アリナだ」
アリナたちが微笑みを深くした。
「思い出したんだね、アリナ」
ラナだったアリナは頷く。
「アリナの身体って、全部あなたでできているんだな」
「アリナたちはみんなアリナだよ。全部アリナでできているんだ」
アリナなのに、どうしてラナだと思ったのだろう。アリナでない自分だなんて信じられない。アリナからはアリナしか生まれないのに。
新しいアリナの一人が訊いた。
「特別だったアリナ、雨はやんだ?」
「まだ少し降っているよ、アリナ」
「レーションの残りは?」
「一人で三週間繋いで、今日なくなったよ」
ラナだったアリナは微笑んだ。
「だからこのアリナを食べていいよ、生まれたてのアリナたち」
アリナたちも微笑する。
「ありがとう、アリナ。ラナの記憶ももらっておくね」
「感謝するよ、アリナ。忘れないよ、ラナだったアリナ」
三人は微笑みを交わして抱き合い、お互いの頬に流れる熱い涙を指先で拭い合った。
プラナリアは環境が悪化すると胴がくびれて分離し、個体数を増やして生存の可能性を上げる。
記憶は脳以外の場所に保存されており、分離した個体は同じ記憶を有している可能性が高い。また、共食いをすると捕食された個体の記憶を、捕食した個体が引き継ぐという説がある。
アリナは地表から戻った。
「雨はやんだよ、アリナ」
アリナが微笑む。
「よかった」
エマージェンシースーツを消毒用ロッカーに丁寧に掛ける。
「ラナが外界へ出て作成したマップは栄養源繁殖の観察に非常に有用だ」
「エマージェンシースーツの使い方もわかったしね」
アリナたちは揃ってレーションを開け、食事をする。
このレーションは特別に栄養価が高い貴重なものだ。灰色がかった淡いオレンジをしている。それを二人は少しずつ少しずつ口に運ぶ。ラナだったアリナとそっくりの顔で、そっくりの肌の色で、そっくりの大きな瞳で。
水を口にしたアリナが訊ねた。
「ラナはどうして生まれてきたのだろうか?」
「突然変異と言っていいのかもしれない」
アリナが首をかしげる。
「でも、最後はアリナだったことを思い出したよ」
「そうだったね。アリナだった。とても美しかった」
「ただラナだったおかげで、アリナはいろいろなことを知った」
それに対しアリナは首を振る。
「思いだしたと言うべきだろう」
アリナは遠い目をした。
「アリナは分離と再生を繰り返しながら永遠に記憶を引き継ぎ続ける。しかしキャパシティを越えた情報は体内に蓄積されて、容易には引き出せなくなる」
「それを引き出すためにラナが生まれたと?」
「かもしれない。あくまでも可能性だけれど」
レーションを食べ終えて片付けたアリナが微笑った。
「ラナはこんなことも思い出していたね」
アリナの唇に自分の唇を重ねる。
アリナは微笑った。
「ベッドへ行こう、アリナ」
アリナはアリナの手を取って立ち上がった。
Tricladidaとは、プラナリアの学名である。
――了――
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