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(1)悪夢
これは夢だとわかっていた。
紫之の手に葬儀会社の社員からマイクが渡される。だが紫之の手はぶるぶると震えて、マイクを口元へ持っていけない。
「しの?」
光がささやきかけてきた。紫之はうつむいたまま、動けない。
参列客がざわめく。
突然、光が紫之の手からマイクを奪った。
「喪主である兄紫之がご挨拶すべきところですが、非常に動揺しておりますのでわたくし、弟の光が代わりましてご挨拶申しあげます」
光がすっと息を吸ったのがわかった。
「本日は父高雄、母由美子の葬儀に際し、ご多用中のところを多数ご参列いただきまして誠にありがとうございました。心のこもった弔辞をいただき、亡くなりました両親もさぞや喜んでいることと思います。
両親は十月十二日、大型トラックの事故に巻き込まれ、午後四時半頃に相次いで息を引き取りました。父は享年四十八歳、母は享年四十四歳でした。
前日、両親は僕たち兄弟とともにいつものように食事をとり、和やかなひとときを過ごしました。まさか翌日にあのような事故が起こるとは夢にも思いませんでした。
本当にあっけない最期でした。長く苦しまなかったことが、せめてもの救いですが、僕たち兄弟にとりましては、まだ信じられない思いで一杯です。
これからは、兄弟二人で力を合わせて生きていきたいと思っております。皆様には、これからも変わらぬご厚情を賜りますようお願い申し上げます。本日はありがとうございました」
感動的な見事な挨拶だった。
そこかしこから年子の弟、光への賛辞が聞こえた。そして喪主の役目を果たせなかった紫之へは冷たい言葉が投げられた。
「愚兄賢弟とはよく言ったものね」
「大学にも行っていないんでしょ」
「ひきこもっているらしいわよ」
(やめてくれ、やめてくれ)
(僕が駄目なのは一番よくわかっているから)
(やめて)
(あいつが来ちゃう)
(あいつが、僕を食べに)
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