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無機質なコール音がいつも通り三度で止まると、受話器の向こうからはあのころみたいに微笑む気配がした。
「どうした? こんな時間に」
揶揄するでもなく、咎めるでもなく、それはほとんど優しいとさえ言える声だった。
「夢をみたの。墜落するとわかっている飛行機に乗って、いきどまりを目指す夢」
「いきどまり?」
私は、彼が泣き出せばいいのに、と思った。こんな暗喩に満ちた夢を、なんのためらいもなく話されることに怯え、苦しんで。
でも、彼が発した言葉はーーたとえそれがどんなに驚きに満ちているはずのものであってもーーいつだって水の中に氷をそっと入れたときのように、静かに馴染んでしまう。
「ええ、いきどまり」
彼は、それは、とだけ言ってから少し言い淀んで、ずいぶん象徴的だね、と続けた。
「夜行バスみたいな四列のシートなのに乗っているのは私だけで、私は最後尾の右端で、通り過ぎていく工場地帯の黒い煙を眺めたり、遠くから聞こえるサイレンの音に耳をすませたりしていた。数分だったような気もするし、何年も乗っていたような気もするわ」
「あるいはそんなことはどうでもよかった」
「そうね、そうかもしれない。そして機長が私に訊くの。いきどまりに着きましたけど、どうしますか? このまま墜落しますか? それともここで待ちますか? って」
それで君はどっちを選んだんだい? などとは言わずに、彼は尋ねる。
「でもいい旅だった、違うかい? 君は幸せだったんだろう?」
君は幸せだったんだろう?
いつだってそうだった。
この人はこんな風にいつだってやすやすと真実に触れてしまえた。無造作に、無自覚に。まるで、放し飼いの猫がふらりと散歩に出かけるような、そのくらいの自然さで。
残酷だ、と私は思う。
もう笑い声も甘い言葉も、冗談のひとつさえも絞り出せないのに、こんなにも簡単に彼は私の空白を埋めてしまえる。
「そうよ、私は幸せだった。墜落するとわかっている旅が幸せだなんて、酔狂よね」
「そんなことないさ、ずいぶん遠くへきたんだもの」
夢の話でも、距離の話でもないことがわかったので、なにも言えなかった。
受話器越しに彼が、小さくため息をついて、それからひっそり微笑んでいる気配がした。私たちがいきどまる前の遠い昔みたいに。
それで十分だった。
もう何年も変えていないくたびれた部屋着に、お気に入りの大きすぎるオーバーを羽織って私は家を出る。彼がいつか、不調和で落ち着かなくて私らしい、と言っていた格好。
吐く息が暗がりの中で、小さな雲のように流れては消えていく。
反射的に拾ったタクシーのシートは夜空みたいに冷たくて、なんだか心地よかった。
景気よく走り出して、どこまで? とぶっきらぼうに尋ねる運転手の声に、私は、ちょっとそこのいきどまりまで、と返して小さく笑う。それからやっぱり思い直して大笑いした。
どこへ向かうのかわからないタクシーは、とにかく遠くへ走っていく。
深夜の路地を歩く、コンビニの袋を二人のあいだにぶら下げたカップルが、なにか奇妙なものでも見るような目で私を見る。
それがなんだか可笑しくて、私はもっともっと笑った。
夜中のタクシーの窓を少しあけて。
甘い夜の風を深く肺まで吸いこんで。
ただ、胸の中だけが空っぽなままで。
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