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雪は懇々と降り、駸々と積もる。
野々市はその日、人生で初めて雪が根雪になるその様子を目前で見ていた。
『ゆーきやこんこ、あられやこんこ』で始まる童謡を聞くたび、幼い自分は、
「雪に音があるもんか」
そう思っていた。
可愛げの無い子どもだった、と自嘲する。
だが実際雪を前にすると、そうも言えなかった。踏み締める音とも違う。
もっと柔らかで、しかし確かに降り固められていく、『静寂』という音がそこにあった。
「西念さん、雪ですよ」
野々市が、傍で熱燗を干している朴念仁に声を掛けると、眠気を湛えた双眸がこちらを見た。
障子越しの、縁側の向こうの雨戸。
更に向こうへと視線を遣る。
舞い落ちる雪を眺める彼の目は何処か物憂げに見えた。
西念はそのまま何も言わず、猪口へ熱燗を注ぎ、それを煽った。
手酌を続けるばかりで喋らない彼を、「詰まらない」と思いながら野々市も酒を煽る。
夏に解決した事件の依頼主から、
「冬のこちらは如何ですか?」
と招待を受け、教授を伴い、この豪雪の地を再び踏んだのは今朝のこと。
夏とは様変わりした周囲の景色に驚きつつ、元依頼主の車に乗り込んで、しばしの車旅を楽しむ。
元依頼主が選んだ地元の宿は、下車した駅からもかなり離れている山中にあった。しかし、有名な温泉地の一部のようで、温泉街のメイン通りを歩く人の意外な多さに、野々市は驚いていた。
当の宿は温泉街から少し離れてはいたが、こじんまりとしつつ、なかなか趣深い作りをしている。
特に露天風呂は格別で、現に教授は夕食をサッサと平らげ、晩酌もそこそこに再度出て行った。
一方の西念である。普段はどうやって生計を立てているのか皆目見当も付かない彼だが、この年末は大事な論文を書いていたらしい。降って湧いた旅行計画に、拒絶の意を示していた。
他校の研究員である彼の論文進捗を、どこまで踏み込んで教授が把握していたのかは知らない。だが、「全然進んでないみたいだし、休んだら?」と言って教授が半ば強制的に、穴蔵の西念を引っ張り出してきた。勿論進捗の邪魔をされ、彼は冬眠中叩き起こされた熊の如く不機嫌だった。
気持ちは分からなくもないが、不快な気分を周囲に撒き散らす野郎といても全く面白くない。
「西念さん、何か面白い話して下さいよ」
野々市の言葉に対し、西念はちらと視線を寄越すだけに留めた。
またもや会話することに失敗した野々市は「もうやってられない」とばかり、嫌味に溜息を吐き、卓を離れ、障子を開ける。
雨戸との間の縁側に出ると、底冷えをするような寒さが足元を這い上がってきた。
それでも、歩むことは止めず窓際に置かれた籐の椅子に腰掛ける。
そこからだと、雪が降り積もるのがよく見えた。
「予兆、は知ってるか」
突然、中から声がした。
思わずそちらを見るが、閉めかけの障子に阻まれ相手の顔は見えない。
野々市は少し考えて答える。
「……えーと多分知ってますよ。種類は色々ありますけど」
それを訊いて、中から鼻で笑う声がした。
「燕が低く飛ぶと雨が降る。新しいものだと、カマキリが卵を生む位置が高いと豪雪になる。確かに色々種類があるな」
それから間があった。
液体を注ぐ音がする。それこそ、何かが始まる予兆のようだった。
「俺が聞いたのは、ある雪国の家の『予兆』だ」
中の人は、静かに話し始めた。
◇
その人は日本海に面する県の、ある地域の生まれだったという。
冬も湿り気を含んだ雪が良く降ったが、それ以外の季節も雨が多かった。
彼の住む家は県庁所在地の中にあったが、その中でも比較的田舎に立地した。そのため敷地は割合広く、石塔を配した庭もあった。
庭木も春は梅、夏は藤、秋は柿に、冬は唐橘……と色を持っていた。
祖母は大層その庭が好きだったようで、なんのかんのと花を植えてはよく世話をしていた。
天候に恵まれない土地で、気分を晴らす知恵だったのかもしれない。
「あるいは」とその人は付け加えた。
嫁に来た祖母の、息抜きだったのかもしれない、と。
その庭木の中に、椿があった。
その人は生まれてから、それが咲いたのを見たことはなかった。
祖父が「あれは椿だ」と言うので、それを信じたが、やたらと突き放すような物言いが気になってはいた。
そうでなくても、祖父は庭に興味が無かった。寧ろ縁側にも近寄りはしなかった。
外に出るのが嫌いな人では無かった、とその人は言った。
散歩には出ていたし、近所の老人たちと花見をするからと出ていくこともあったという。
しかし、庭に関心が無かったのだそうだ。
椿について、彼は折に触れて何度か祖父に尋ねたという。
庭に関心が無い祖父が、唯一口にした椿が気になったのだ。
前に咲いたのはいつか、何月ごろ咲くのか、そして……どんな色をしているのか。
しかし祖父は、それについていっかな確かな返事をくれた事は無かった。大概は、嫌悪感を示し話を逸らされた。
椿に興味を持っていたのは、彼の弟も一緒だったらしい。
一度、弟と半ば詰る(どちらかというと強請るに近かったが)ように祖父に訊いたことがある。
「教えて、咲くようにお世話するから」と弟が迫った時だった。
その時の祖父の表情を、彼は忘れられない、と言った。
『畏れ』。
何故その表情を浮かべるのかその時はわからなかったが、祖父はいつも通り彼らの話を除けて、部屋を出て行ったという。
それは、彼が十歳になった年の、秋の終わりだった。
その日、祖父母は老人会の旅行、当時珍しかった共働きの両親は仕事で帰りが遅かった。
常に家族の誰かが家にいる環境下では、子供だけの自宅というのは何となく心が踊る。
早く帰る弟に鍵は取られ「鍵っ子」とは言えないが、それでも家に帰るのが楽しみだった。
授業が終わると、彼は真っ直ぐに家に帰った。
弟と何をして遊ぼうか。
家の中で鬼ごっこでもしようか、最近父親に買ってもらったトミカでも走らせようか、と考えながら玄関を開いた。
その瞬間、鉄臭さと生臭さが混じった匂いがして、途端にむせ返った。
思わず、服の袖で鼻を覆う。
何が起こったのかわからなかった。
普段、家の入り口は祖父母が焚き染める線香の香りに包まれている。確かにそれも古ぼけた、独特の香りだとは思うが、こんな異臭はしない。
「弟が何かをしたのか」と思うが、何をしたらこんな匂いが生まれるのかという、そればかりを疑問に思った。
『中に入らなければならない』。
そう思いようよう歩みを進めるが、彼の足は鉛のように重かった。
弟の名前を呼びながら家中を回った。
兄弟で使っている部屋、居間、父母の部屋、厠、台所。
だがどこからも返事は無かった。
最後に残ったのは、祖父母の主だった生活領域である、和室だった。
そこまでで、既に彼は異様な雰囲気を感じていた。
弟は彼と同じく、子どもだけで過ごす今日を楽しみにしていた。
鍵を開け放して、一人で出かけることなどありえない。
けれど、そうしたら。
……―弟はどこに行ってしまったのだろう?
和室に踏み込んだ時だった。
例の臭いが一段と強くなった。
弟がいるのかと思い、名前を呼びながら奥の仏間へと続く襖を開く。
仏間には、仏壇の前にお参り用の座布団が置いてあった。
そこに、女が座っていた。
黒い着物に身を包み、種類はわからないが日本髪に髪を結いあげている。
俯いて、微動だにしない。
母でも祖母でも無い彼女が、何故ここに居るのか、彼には瞬間わからなかった。
だが、弟が鍵を開けた後の家にいることの意味を考えた時、身体が凍った。
泥棒か、強盗か、……殺人者か。
彼の迷いを余所に、女はただ只管に仏壇の前に座っていた。
不審者の類にしては静かだった。
息をしているのかもわからない。
その静寂が、彼にとっては毒でしか無かった。
「とにかく逃げなくては」と後退るが、足が絡んで後ろに転倒する。
思わず眼を瞑り、視界が奪われた。
そのことに焦って急いで眼を開けると、息を呑んだ。
眼前に、女の顔がある。
目は大きく開かれているらしかった。
らしい、というのは女の目は無く、暗く落ち窪んだ空洞しか無かったので、緊張した目の周りの筋肉で判断するしかなかったのだ。
口は半開きだったが、その奥にあるはずの歯は無く、黒く変色した歯茎と赤黒い舌が見えた。
髪が結い上げられていたせいで、それらはハッキリと見えた。
そして。
家に入った時から気になっていた匂いが、女からした。
血の匂いよりももっと醜悪な、嘔吐きたくなるような匂い。
刺激で目から無意識の涙が出た。
女の空洞を見つめ、身体が動かずにいた刹那。
「はつごか」
女の口から音が出た。
意味はわからなかった。
「はつごか」
わからないが、何かを問い掛けているらしい。
何と答えるべきか彼にはわからなかったが、答えなければ死ぬ。
直感的にそう思ったという。
しかし、何と答えればよいかもわからない。
今目の前に対峙している化け物は、何と答えれば見逃してくれるのか、皆目見当が付かなかった。
「はい」
口からその言葉が出て、身震いがした。
自分の予想と違う言葉だったからだ。
賛同するのは正解なのか。
自分はどうなるのか。
混乱していると、女の顔が更に近付いて、終わりを覚悟した。
諦めて、恐怖から逃れる為に目を瞑る。
匂いが消えた。
そう感じて眼を開けると、女もあれだけ漂っていた匂いも無くなっていた。
残っているのは、微かに鼻腔をつく気配だけ。
自分の身体を見回しても何事も無い。
ホッと息を吐いた時、畳に着いた手の中に、何かがあることに気付いた。
「何だろう?」と手をずらすと、赤い花弁が現れた。
ただ一片。
瑞々しく、肉厚なそれを拾い上げた時、予感が走った。
和室の端へ駆けていくと、障子を引き庭に面した廊下へ出る。そして、縁側を有す掃き出し窓を開いた。
弟は自分より先に帰宅していて、あの女に会った可能性がある。
それで?
あの質問にはどう答えたのだろう?
彼は庭を見渡した。
多雨の地域の、立冬の頃合いである。
曇天の下で砂を吐いたような黄昏が、庭に立ち込めていた。
その中に鮮烈な黄色を見つけて、視線が隅に吸い寄せられる。
弟はその黄色いTシャツを好んで着ていた。
「キレンジャーだね!」と、Tシャツを着る度に嬉しそうに笑っていた。
だが椿の根本に横たわった彼に、その面影はなかった。
目は虚に開かれ、開いた瞳孔で天を見つめていた。
口ばかりが大きく開き、舌の赤と肌の白が酷く対照的だ。
その白い首には、火傷のような赤く細かい水泡が、巻き付くように付いていた。
痛々しく、眼を背けたくなる。
彼は弟の名前をポツリと呼んだ。
そしてそれ以降、呼ぶことは無かった。
弟の葬式は正に悲惨で、両親……―特に母親の悲しみように『死んだのが自分だったら良かった』と彼は酷く後悔した。
祖母は、泣きながら弟の気に入っていたトミカを撫でていた。
しかし、祖父だけは泣きもせず、一連の行事の最中も言葉数が少なかった。
父は「孫が死んだのに」と責めたが、彼には何か思い巡らせているように見えた。
弟の四十九日が終わる頃に、庭は新雪で砂糖を塗したようになっていた。
家の中は未だ沈んでいたが、痛みを伴うような悲しみは去り、徐々に日常を取り戻していた。
ある日彼が帰宅すると、いつも居間でラジオを聴いている筈の祖父がいなかった。居間に隣接する台所では祖母が夕飯を作っていて、祖父の居所を訪ねてみるが「知らない」と言った。
弟がいなくなってから、家族では専ら祖父が遊び相手だった。遊んで貰おうと探すと、何のことはない、縁側に佇んでいる。
……何のことはない?
彼は祖父の姿に違和感を覚えた。
祖父は庭に興味が無いはずだ。木の種類だって、花の種類だって、祖母の方が詳しい。
じゃあ何故?
嫌な感じを胸に抱きつつ、祖父を呼び近付いた時、彼はそれに気付いた。
椿が咲いている。
その花弁の色は赤だった。
その色と、雪の白との対比は酷く美しかったが一方で恐ろしかった。
否応無しにあの日の記憶が蘇る。
自分の手の中の花も、確か赤では無かったか。
思わず祖父の着物の袖を握った。
「じいちゃん」と声をかけ、顔色を見ようと顔を上げるが、祖父は此方を見もせずに、こう言ったそうだ。
「咲いたな」と。
◇
唐突に始まった怪談話に野々市は聞き入っていた。
西念が怪談話をするのは珍しい。
何しろ、本人に霊感というものが備わっていないのだから、心霊現象に遭遇する機会は極めて少ない。必然的にそういった話をすることは、調査機関中でもなければ無かった。無論、その点は野々市も一緒であったが。
けれど、今回の話が進むと同時に膨らんだ疑念は、話が終わる頃には大きくなり過ぎていた。
これは、もしかして、と。
「あの。怖い話訊いといて、第一声がこれってあれなんですけど、その話って」
野々市の支離滅裂な物言いに、部屋の中の西念は特に関せず答えた。
「ああ、俺の話では無いぞ」
その言葉に童顔の青年は思わず安堵する。
確かに、よく考えればわかることだった。
西念の知り合いだという刑事から訊いた、彼の過去とは大きな相違がある。
わかる筈なのに。
それでも気になったのは、彼の声が……―無機質に近い彼の声が、酷く悲しげに聞こえたからだった。
それでなくても、伝え聞いた彼自身の過去は、怪談話の主人公に負けないくらい『悲惨』だ。
だから、彼の様子が少しだけ心配だったのだ。
「あんまり、無理しないでくださいね」
そう声を掛けるが、当の西念は「何がだ」と、にべもない。
『心配したこっちの気も少しはわかれ!』とも口に出せず、野々市はただ眉を顰めた。
「それにしても、嫌な予兆ですねぇー」
野々市は立ち上がり、部屋に入ると後ろ手に障子を閉める。
少し縁側に長居し過ぎたようだ。
流石に寒くて、少しでも暖まりたかった。
「女が出ると、人が死ぬ。家系に憑いてるのか、土地に憑いてるのか……」
そう言って溜息を吐くと、西念が笑った。
彼の笑顔の意味がわからず首を傾げると、西念が堪えながら呟く。
「まぁ、普通そう思うよなぁー」
その呟きに違和感を覚え、野々市は尋ねた。
「どういう意味ですか?」
西念は熱燗を再び猪口に注ぐと、野々市の方にも徳利を差し出してきた。
仕方なく猪口を差し出すと、ゆっくりと徳利を傾ける。
「お前が言うように、その家には確かに『予兆』に関する言い伝えがあった」
猪口が一杯になると、西念は徳利を傍に置き、野々市と杯を合わせた。
「けど、それは『女』に関してじゃない。……『椿』に関してだ」
そう言うと、朴念仁は杯に口を付けた。
理解が追いつかず、野々市は言葉を失う。
色々考えるが、酒を飲んだ頭では纏まらない。ともかくと西念を促した。
「え、待ってください。それ、どういうことですか?」
軽く揺さぶると、晩酌を邪魔されて嫌なのか、西念は顔を歪めた。
大きく溜息を吐くとこう言った。
「あの家に伝わってた言い伝えはこうだ。
『庭で死人が出ると、椿が咲く』」
野々市は肩を揺らす手を止めた。
「……女は?」
「女については伝わってない」
その言葉に野々市は肩から手を離した。
そうして、意味が分からないという風に、頭を掻く。
そんな彼の様子をみた西念は、再び楽しげに笑った。
「すごい気になるんですけど。その女が何だったのか」
「うーん、誰にもわからないかもなぁ」
「いや、体験者の人に訊いてみればわかるかもしれないじゃないですか」
西念は、その言葉を聞いていないかのように、残っている鍋の具材を突いた。
「西念さん聞いてます?」
野々市の憤然とした様子にも動じない。
「聞いてるよ?……けど、その方法は取れない」
「何で?」
西念は野々市を見なかった。
ただ淡々と鍋の具材をよそうと、こう答えた。
「だって体験者亡くなってるもん。……―その家の庭で」
静かに降っていた雪は、急にガタガタと窓を揺らす、吹雪の様相を呈していた。
そんな外の天気を余所に、西念は煙草に火をつけ、酒を煽る。
……そうして何事も無かったかのように振舞った。
《了》
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