或る果ての晦日に

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或る果ての晦日に

「竜宮庵」と書かれた摺りガラスの引き戸を叩くと、中から「どうぞ」と返事が聞こえた。  扉を開けると、マフラーに顔をすっぽりと埋めた咲見町が、玄関で靴紐を結んでいるところだった。 「待たせてすまんな」  そう言って立ち上がり、彼は廊下の奥の方へ向かって一言だけ行ってきます、と声を掛けた。  薄暗い廊下の途中にはストーブが燃えており、やかんから白い湯気がしゅんしゅんと沸いている。奥の方からは慌ただしく、人の動き回る気配がした。  僕と咲見町は連れ立って、竜宮庵から道なりに商店街を歩きだした。  年の瀬の商店街はいつもより寂し気でそら寒い。風で店のシャッターがカタカタと揺れている。  二股に分かれる道の辺りで、ふと視界が開けた。凍てつくような空の下に、熱海温泉街のネオンが煌々と広がっている。 「さて、誰から迎えに行こうか」  例年、来宮神社に向かう途中で仲間たちの居るホテルや施設を覗き、順番に彼らを出迎えにゆくことが恒例になっていた。僕と咲見町はしっかりと防寒具を着込んで、静かな夜の中を歩いてゆく。 「本当は今年はさ、晴れ着を着てこようかと思ったんだ」  冗談めかしてそう言うと、咲見町に「馬鹿者」と睨まれた。  所々にある建物の突き出した煙突から、温泉の湯気が流れ出ている。旅館の裏手を通り過ぎると、食器を洗う軽快な音が戸口から零れて聞こえた。しばらく前から、除夜の鐘の音が深く低く、街の空気を震わせている。  銀座町の方へ向かう途中で、ふいに街灯のひとつに向かって、咲見町が手を伸ばした。  白く細いその指先に明かりが灯ったかと思うと、彼はそれをパッと掌の中に仕舞い込んだ。街灯の明かりが音もなく消える。 「いいの? 真面目な君がそんな事をして」  そう言うと彼は、彼にしては珍しく目を細めて笑って、人差し指を唇に当てた。  僕も真似をして、通りすがりの旅館の門前にぶら下がった提灯の明かりをひとつ拝借することにした。掌の中に、白く柔らかい光が収まる。  銀座町から中央町、清水町、起雲閣の方へと、僕たちは順繰りに仲間たちを迎えて歩いた。起雲閣の中にあるカフェには他の町の皆がもう集まっていて、冷え切った顔をした僕たちに熱い紅茶を振舞ってくれた。  僕たちは久しぶりに顔を突き合わせて、そして今日運悪くシフトの当番をしている一人の事を話して笑った。  だが、彼もきっとそのうち僕らに合流するだろう。金髪頭の風変りな仲間を思って、僕は一人、こっそりと唇の端を吊り上げた。  もうすぐ、日付が変わる。  冷え切った屋外へ出ると、東の夜天に硬質な月が煌めくのが見えた。  この一年の最果てへ向かい、僕たちは連れだって坂道を登っていく。時折目を瞑ってみると、暗い海の方から潮騒が聞こえるような気がした。  咲見町から離れて歩いていた僕は、仲間の一人にこっそりと耳打ちをした。その伝言は抑えた笑い声と共に次第に最後尾まで伝播して、坂を登り切る頃には僕らは、一人に一つ、ポケットの中に明かりを隠し持つことになった。  新幹線の線路が見える辺りまで坂を登りきると、そこかしこに初詣の人々の影が見え始める。  来宮神社の境内は、橙色の柔らかい明かりで溢れていた。 「やぁ、皆。今年も来てくれてありがとう」  着物姿の西山町が、穏やかな微笑みで僕らを迎えた。そしてそのまま、境内の奥の大楠の方に案内される。白い布をくぐると、神秘的な大木が僕らの目の前に現れた。  樹齢二千年の歴史をもつ大楠は、力強い生命力で僕らの街を守り続ける。不老長寿、無病息災、子孫繁栄、心願成就……  尊い祈りを導き、御神木は僕らにかけがえのない安心をもたらしてくれるのだ。 「あけましておめでとう」  誰かがどこかで囁いた。その瞬間、僕たちは示し合わせたように、両手を大樹に向けて放つ。  明るい光たちがぱっと宙に舞い、それは枝葉の間に揺れてキラキラと闇を照らした。 「あけましておめでとう」 「おめでとう」  僕たちは改めて、顔を見合わせて笑い合う。勿論、咲見町も笑っていた。 「君はずっと、そんな顔をしていればいいと思うよ」 「では、させてくれ。お前の日頃の行いに掛かってる」  それから彼がすぐに仕事の話を始めたので、あまりの生真面目さに僕はまたクスクスと肩を揺らした。ずっと、こんな心地よい気分が続けばよい。  僕たちは手を合わせて、それぞれに新年の抱負を祈願した。  今年も一年、賑やかで、美しく、絶え間なく輝かしく……そして、  我々に相応しい、晴れやかな一年になりますように。
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