#1 かいがら……春

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#1 かいがら……春

「そうそう!もう寝るとこだったわ。今日も疲れててさ〜」 スマホを耳に当てて軽快な声で話す男の後ろ姿を、私はベッドからぼんやりと見ていた。 ボクサーパンツ一枚の後ろ姿は、背中からお尻にかけてのラインがキュッと引き締まっている。 (さすが体育教師だな) 私はベッドの脇に置いてあった自分のカバンから、携帯を取り出した。 合わせ貝の鈴付きストラップが、りん、と鳴る。 携帯を開いてみたが、着信もメールもなかった。 私は小さく溜息を漏らし、携帯を閉じる。 「彼氏からメール?」 彼女との電話を終えた男が、ベッドにするりと戻ってきた。 「うん」 「静はさ、スマホに変えないの?」 私は、手に握ったままの古びたガラケーに目を落とす。 「…うん、別に必要でもないしね」 「ふうん、でもなんか、静らしいな」 「そう?ふふ」 私は曖昧な笑顔を返す。 亮さんにとって、「彼氏からのメール?」も「スマホに変えないの?」も、さして意味のない質問なのだ。 「…もう一回する?」 亮さんは細長い指で、私の髪をするりと撫でた。 その指先がふと耳に触れ、ぞく、っと子宮に響く。 私はまた曖昧な笑みを返して、思考を手放した。 「きゃー!!祐樹、シュート決めた!!見た!?大山先生!」 放課後の保健室に、黄色い声が響き渡る。 「はいはい、よかったわねえ。残念ながら日誌を書いてたから、見てなかったわ」 私の返事なんてどうでもいいという風に、森夏美は窓の外に釘付けだ。 「…保健室からじゃなくて、もっと近くで応援したらいいのに」 「そんなの、祐樹に見つかっちゃうじゃん!校内からだと、ここからが一番よく見えるからいいんだー」 「…私は仕事中なんだけどねえ」 呆れた調子で言ってみるものの、恋する女子高生の姿はとても微笑ましく、思わず許してしまう。 「そんなに好きなら、告白してしまったら?」 森さんの答えはいつも決まっている。 「だーかーらー!絶対無理だって!祐樹とは幼馴染だからさー、女と男ってノリじゃないんだよね〜。告白してフラれたら…めっちゃ気まずいじゃん!」 そう言って窓の外を見る横顔は、ちょっと困ったようでもあり、片想いを目一杯楽しんでいるようでもあった。 「あ、亮ちゃんだ」 突然出てきた名前に、思わず息が止まる。 顔には出さないけれど。 「…神谷先生でしょ」 「神谷先生って、皆に亮ちゃんって呼ばれたりして人気あるよねー。ノリいいもんね!」 窓の外に目をやると、満開の桜の奥に、サッカー部員たちと談笑している亮さんが見えた。 いかにも爽やかで、モテそうな男だなと思う。 「そういやさ、亮ちゃん私らの修学旅行に来たじゃん。あれ先輩たちにめっちゃ羨ましがられたんだよ〜!」 森さんはおかしそうに笑いながらも、その目は太田祐樹を追っている。 亮さんは、部員たちに軽快なリフティングを披露していた。 おそらく休憩時間なのだろう。 突然、ちりん、と音がして、白衣のポケットから携帯が抜き取られた。 「これ修学旅行の時に買ったんだよね」 森さんは、手にした私の携帯についている、合わせ貝のストラップをつまんで見せた。 ドキン、と胸がなる。 顔には出さないけれど。 「こら、返しなさい」 私はやんわり、携帯を奪い返す。 「その貝殻のストラップさ、京都のお土産やさんで売ってたの見てたんだよね〜!可愛いなあって思ってたんだ。大山先生とお揃いなら、買えばよかったな〜」 可愛らしい発言に、思わず微笑んでしまう。 でもこれを買ったのは、正確には私ではない。 あの日─── 生徒たちは自由時間で、皆それぞれ買い物や散策を楽しんでいた。 私は何気に、土産物屋の店先で売られている合わせ貝のストラップに目をやる。 小さな合わせ貝には和柄の布が貼られており、一つ一つ色柄が違っていた。 (京都らしいな…) ふと、後ろから影がかかった。 「大山先生」 振り向くと、そこには同じく引率で来ている神谷先生がいた。 神谷先生が修学旅行に来ると知った時、生徒たち、特に女子生徒たちのテンションは大盛り上がりだった。 「神谷先生、写真の行列は終わりましたか」 私がおかしそうに言うと、神谷先生は困ったように笑った。 「なんとかまいてきましたよ。大山先生にお話があって」 「私に…?」 神谷先生とはたまに職員室で挨拶や会話を交わす程度で、特に交流もなかった。 「サッカー部員の、知久のことです」 「ああ、知久君。一時はよく保健室に出入りしてましたが、最近あまり来なくなりましたね」 熱もなく、怪我もしていなくても、保健室に来る生徒というのは一定数いるものだ。 ただサボりたいだけの生徒はやんわり追い返すが、知久君はそうではないようだった。 「気持ち」に問題が発生しているということも、保健室に来る十分な理由になると私は思っている。 「担任の雨宮先生に聞いたんですけどね。知久、両親が離婚してちょっと塞ぎ込んでいたようなんです。でも保健室に通うようになってからは、少しずつ明るさを取り戻したみたいで」 「そうだったんですか…詳しい事情は何も聞いていないんです。ただ雑談したり、たまに内緒でお菓子を食べたりしただけなんですよ」 私が笑うと、神谷先生はなぜか真剣な眼差しでこちらを見つめた。 「わかる気がするな、知久の気持ち」 「え?」 「大山先生って、なんか柔らかい雰囲気があるから。きっと知久の気持ちも癒されたんだろうな」 そう言って微笑むと、神谷先生はおもむろに私の後ろに手を伸ばした。 そして何かを掴み取り、そのまま足早にレジへ向かう。 店を出てきた神谷先生の手にあったのは、あの、合わせ貝のストラップだった。 「さっき、これ見てたようでしたから」 ストラップを差し出され、一瞬意味が理解できなかったけれど、すぐに慌てて両手を振った。 「え、いえ!そんな、頂くわけには…」 「知久の件のお礼です。知久はうちの大事な部員なんで、復活してくれて助かりました」 「いえ、そんな、保健医として当たり前のことをしただけですから…」 「あ!亮ちゃんいたー!!」 対応に困っていると、遠くから黄色い声が投げかけられた。 神谷先生の背中越しに、数人の女子生徒が走ってくるのが見える。 「ヤバイな」 神谷先生はそう言いながらも焦った様子を見せず、ストラップをシャツの胸ポケットにスッと仕舞う。 そしてほんの少し、私に顔を寄せた。 「これは帰ってから渡します。お礼がてら、今度食事でも奢らせてください」 その声は必要以上に小声で、甘く、囁くような響きだった。 神谷先生は私から視線を外さないまま、スッと顔を離した。 胸ポケットの鈴が、ちりん、と小さく鳴った。 「亮ちゃん!清水寺まで登ろうよー!」 「おー、なんだお前ら!あっちで遊んでこいよー!あと、「神谷先生」な!」 すっかり爽やかなトーンで生徒たちと軽口をたたき、神谷先生は振り返ることなく去っていった。 (あの人は、危険だ) 私は本能的に、そう感じた。 ───感じた、のに、結局後日食事に行き、結局私は、合わせ貝のストラップを携帯につけている。 「ねえ、先生って彼氏いるの?」 森さんが嬉しそうに、私の顔を覗き込む。 「だって、私の好きな人知ってるのにズルイじゃん!ねえ、大人のカップルってどんなデートするもんなの?高級レストランとか行っちゃう感じ?」 「森さんが太田くんを好きなのは、勝手に暴露されたんだけど…」 「そんな改めて言わないでよー!恥ずかしいじゃん!」 ふと、手の中の携帯が震え、私は反射的に画面をパカっと開いた。 (しまった) いつもは、生徒の前で携帯をいじったりしないのに。 携帯を震わせたのは、浩介からのメールだった。 開いてしまったので、私は一瞬で文面を読む。 『今日寄るから、なんかメシよろしく』 まさに一瞬で読めてしまう、味気も何もないメール。 「彼氏から!?」 「……そ。高級レストランへのお誘い」 きゃっきゃと騒ぎながら、森さんが携帯を覗き込もうとするが、私はパチンと画面を閉じた。 食卓に並んでいるのは、豚肉と春キャベツの炒め物、丸ごと新玉ねぎのスープ、いんげんの胡麻和え、シーザーサラダに冷えたビール。 高級レストランとは言わないまでも、仕事から帰って急いで用意したわりには充実したメニューだと思う。 浩介はスマホに視線を落としながら、黙々とそれらを口に運んでいく。 「…美味しい?」 尋ねてからワンテンポ間が開いて、気の抜けた声で返事が返ってくる。 「…え?ああ、うん、うまいよ」 ふぅ。 私は小さく溜息をもらす。 浩介と付き合って5年。 決して仲が悪いわけでもなければ、とても充実したお付き合いだとも言えなかった。 少なくとも、私の気持ち的には。 「ねえ浩介、ご飯中くらいスマホやめたら」 「……んー、そうなんだけどさ、今いいとこでさ、もうちょっとでクリアなんだよな〜」 浩介が掴んだままの箸から、豚肉が滑り落ちて皿に戻る。 「静もさ、スマホに変えたら?ガラケーとか古いじゃん」 スマホの画面から目を離さずに、浩介はそう言った。 そうして二人で向かい合って、それぞれスマホを見つめながら食事をする毎日を送りたいのだろうか。 そんなことを思ったが、口にはしなかった。 「今日は、泊まっていくの?」 「…んー、いや、明日早いから帰るわ」 「…そう」 先に食事を済ませた私は、自分の食器を手に台所へ向かう。 すると台所のカウンターの上に置かれた携帯のランプが、ピカピカと光っていた。 (メールだ) 食器を流しに置いて、私は携帯を開く。 『急なんだけど、いいワインを貰ったから今夜うちに来ない?』 亮さん─── 私はちらりと浩介に目をやる。 浩介はさっきと何も変わらないポーズのまま、スマホに夢中だった。 皿に残った豚肉の表面は、すでに乾き始めている。 私はもう一度携帯に目を落とし、返信画面を開いた。 しばらく画面を見つめた後、携帯をカウンターに置き、冷蔵庫を開けて冷やしておいた苺を取り出す。 「ねえ浩介!すっごく甘い苺があるんだけど、デザートに食べ…」 「あー!もう!なんだよもー!!」 私の言葉を遮る苛立った声に、私はビックリしてしまう。 「ここでこんな技とかアリ!?ラスボスまじえげつないわ〜」 浩介はスマホをテーブルに放り出し、大きく溜息をついた。 それからやっと、私を見た。 「あ、静、ビールもう一本取ってよ」 「……わかった」 私は冷蔵庫に苺をしまい、缶ビールを出した。 そして、亮さんに返信メールを打った。 「いらっしゃい」 亮さんの家に着いたのは、21:30過ぎだった。 笑顔でドアを開けて出迎えてくれる。 未だに、この瞬間だけでも子供のように胸が高鳴ってしまう。 もうこんなことを、半年も続けているのに。 家の中に入ると、テーブルにはオードブルが並んでいた。 クラッカーの上にチーズやフルーツが乗ったカナッペ、野菜スティック、ナッツ類が、皿の上に綺麗に盛られている。 「…これ、亮さんが用意したの?」 「うん、簡単なものだけどね」 「なかなか堂々と外食するっていうのも難しいだろ。せっかく静が来てくれるんだし、せめてバー気分を演出しようと思って」 夜景は見えないけどな、と付け加えて、亮さんは悪戯っぽく笑った。 彼女にもこんな風に、さらっと優しくするのだろうか。 やっぱりこの人は、危険だ。 でも私だって、もはや同類なのだ。 私はたまらなくなって、ワインを開けようとしている亮さんの後ろ姿に手を伸ばす。 腰から手を回し、綺麗な筋肉がついた背中にぴったりと寄り添う。 せっけんの、いい香りがした。 「…なに、ワインは後にする?」 亮さんは私の腕の中でするりと体の向きを変え、私の頰に手を添える。 親指で唇をなぞられ、瞬時に呼吸が苦しくなった。 その指は唇の感触を楽しんだ後、口の中へと侵入してくる。 それだけでもう、私は立っていられないほどの痺れに襲われてしまう。 ソファに倒れこみながら、私は痺れた頭で、数十分前に見た乾いていく豚肉を思い出していた。 (どっちが、現実なんだろう) 目を閉じると、ほんの少しチーズの香りを感じた。 「静って、いっつも笑ってるよな」 「…そう?」 私たちはソファでもつれ合った後、ワインを飲み、気だるい体をベッドに投げ出していた。 「いつもなんか楽しそうじゃん。そういうの、静のいいところかもな」 「…ふふ、そうかな」 あなたと居て、心から楽しかったことなんて一度もない。 そう言ったら、亮さんは驚くだろうか。 「…消去法よ」 「え?なんて?」 「ううん、なんでもない」 泣くことも、怒ることも許されない関係だから、亮さんの前では笑うことしかできない。 愛や未来を語れる関係でもないから、くだらない雑談しかできない。 「あ、ほらまた笑ってる」 そう言って無邪気に笑う亮さんに、私はまた、笑顔を返した。 「夜がずっと続けばいいのに…」 私は馴染みのバーで甘いカクテルを飲みながら、細い息を漏らすようにつぶやいた。 でも独り言ではない。 カウンターの中には、女店主兼バーテンダーのちかこさんが立っている。 4〜50代くらいに見えるちかこさんは、口数も少なく、決して愛想がいいとはいえない。 でも客を「独り」にはしない、優しさがある。 ちかこさんの前でお酒を飲むと、とても心が落ち着く。 「…あんた、いい恋してないね」 ちかこさんはナッツを皿に盛りながら、ちらりと私を見た。 「え?」 「夜が続けばいいと思うような恋は、大抵いい恋じゃないからね」 「……」 「…でも、私が悪いんです」 自分が「浮気」をするなんて、考えたこともなかった。 もっと言うと、浮気は頭の悪い人間か、よほど性欲の強い人間がすることだと思っていた。 浮気をするほど恋人のことが嫌いなら別れたらいいし、浮気したいと思うほど好きな人がいるなら、きちんとそっちの人と付き合えば済むことだ。 もちろん今でも、正論はその通りなのだ。 でも、いつだって「正しいこと」を選べるとは限らないと私は知った。 そして27年間培ってきた私の正義感やらなんやらは、粉々に砕け散ってしまった。 「私が、悪いんです」 もう一度、自分を戒めるように私は呟く。 「それでも」 「女が幸せな方が、世の中うまく廻るってもんだよ」 ちかこさんはそう言って、私のグラスにさくらんぼを乗せてくれた。 安っぽい赤が可愛らしい、缶詰のさくらんぼ。 「幸せ…か」 (私は、どうしたいんだろう) さくらんぼを口に含むと、どこか懐かしいシロップの甘みが広がった。 「あー、夜が来なければいいのになあ」 森夏美は窓の外を見つめながら、ため息混じりにそう言った。 私は驚いて、日誌を書く手を止めた。 「だってさ、夜は祐樹に会えないんだもん。昔はうちに来て晩御飯とか一緒に食べてたんだけどなあ。今は学校で会うだけ」 あーあ、と、つまらなさそうにもう一度ため息をつく。 「…いい恋、してるのね」 「え?なにそれ〜」 「ううん、なんとなくね」 森さんは照れくさそうに笑って、それからふと、真顔になった。 「…私さ、告白、しようかと思うんだ」 「え?あんなにできないって言ってたのに、する気になったの?」 「うん。だってさ、やっぱり知ってほしいじゃん、私の気持ち」 正面から見た森さんの目に、窓から差し込む夕陽が映り込む。 キラリと光る濁りのない瞳は、とても純粋で美しい。 「怖いけどさ…ちゃんと伝えようって決めたんだ」 森さんは私から視線を外し、窓の外に顔を向けた。 でも私は、しばらく森さんから目が離せなかった。 エネルギーに満ち溢れた、綺麗で、無垢な女の子。 「…羨ましい」 「え?」 「上手くいくといいね」 「うん、応援しててよね!」 「もちろん。失恋したら保健室で慰めてあげる」 「ちょっとー!縁起悪いこと言わないでよ!でもそうなったら絶対ここ来る」 森さんはケラケラと笑い、私も笑った。 (私も、まだ遅くないかな) 自分がどうしたいのか、私はようやくわかった気がした。 食卓に並んでいるのは、鰆の味噌焼きに筑前煮、味噌汁と漬物、サラダ、そして冷えたビール。 浩介は相変わらず、スマホ片手に箸を動かしている。 でも今日はそのことについて、一度も咎めなかった。 食事が終わったら伝えようと思っていることがあるからだ。 私は食事が喉を通らないほど緊張していたが、味のしない鰆を無理矢理口に押し込み、味噌汁で流し込む。 浩介の食事が終わるのを待つ反面、少しでもその瞬間を遅らせたい気持ちもあった。 (本当に、いいのだろうか) 私はもう27。 22から5年間という若さを捧げてきた相手が浩介だ。 お互いもう、言わなくてもわかることは多くなっている。 浩介好みのハンバーグは分厚いのよりも平たいほうだとか、私は感情移入し過ぎるので高校野球を観られないとか。 (あれ、なんだかくだらないことしか思いつかないな) 所詮、時間と共に知ることができるものなんて、大したことではないのかもしれない。 でもそれを一から違う人と始めるのは、私にとってどうしても勇気のいることだった。 そんな事が頭をぐるぐるよぎっている間も、浩介の箸はロクに動いていない。 昔は、楽しかった。 付き合い始めの頃、浩介はとても優しくマメで、記念日にはサプライズだってしてくれた。 何より、食事をするときはもちろん、私といるときはまっすぐに私と向かい合ってくれた。 お互いに理解が深まったからといって、相手を見る必要がなくなるわけではないと、私は思う。 ただ二人でいる間、まっすぐに私の目を見つめてくれるというだけで、心が動いてしまうこともある。 たとえ私の事を何も理解していなくても、他に彼女がいたとしても。 それくらい、大切なことなのだ。 少なくとも私にとっては。 (この人はきっと、もう私を見ることはないのだろう) 鰆に塗られた味噌が乾いていくのを見て、さっきまで迷いがあった私の気持ちも、すっかりと蒸発していった。 「浩介」 「……んー?何」 「別れたいの」 「……」 「え?なんて?」 浩介が、やっとスマホから顔を上げる。 「私と、別れて欲しいの」 私は浩介の目をまっすぐに見て、もう一度言った。 すると浩介は、突然ふっと笑顔を見せた。 「ええ?なに、なに怒ってんの」 「怒ってない。まじめに言ってるの」 「おいおい、なんで怒ってるのか知らないけどさ、俺たちもう付き合って5年じゃん」 「お互いいい年だし、まあ先々には結婚とか、そういう感じだろ?」 私の気持ちは、鰆と一緒にどんどんと乾いていく。 もういい年で、付き合いも長いからそろそろ結婚で、今から別れるとか面倒だって、私もさっき同じことを思っていたのに。 でも浩介から言われると、こんなにも冷えた気持ちになる。 私たちはもうお互い、「別れない理由」にそんなことしか思いつかないのだ。 「…好きな人ができたの」 「ごめんなさい。私と別れて」 浩介は今度こそ、スーパーで売られている魚みたいな顔をして押し黙った。 『今夜、時間ありますか』 浩介が部屋を出た後、私は亮さんにメールを打った。 亮さんの部屋へ行くことになり、私は急いで支度を整える。 ただ積み重なっていくだけの毎日に訪れた、めまぐるしい展開。 私は未だ頭がついていかず、まるで別人のドラマを冷静な私が見つめているような気分だった。 いや、亮さんとそうなってしまった時から、私の毎日には大きな変化が始まっていたのかもしれない。 でもそれを壊さないように、何も変わりがないようにと、かろうじて頭に残った理性で守ってきたのだ。 でも今はもう、心だけでうごいている。 (とにかく、亮さんのところへ行きたい) 私は勢いよく部屋を飛び出し、小走りで街を進んだ。 心臓はずっと、激しくリズムを刻んでいる。 (早死にするかもしれない) バカなことを考えながら、少し歩くスピードを緩める。 (そういえば、私からメールしたのも、誘ったのも初めてだ) だんだんと、恐怖心が込み上げてくる。 必要以上に、近付いてはいけないと思っていた。 足りないくらいがちょうどいいと。 お互いのために。 でも、そうなってしまった時から、もうすでに遅かったのだと思う。 私は決して、恋愛に器用な方ではないのだから。 「いらっしゃい」 ドアを開けた亮さんの笑顔は、いつも通り柔らかだ。 「急だったから、ちょっと散らかってるけど」 「…ごめんなさい、私…」 「いや、俺もメールしようかと思ってたところだったから。ちょうどよかったよ」 そう言って亮さんは、私の髪に優しく触れた。 真っ直ぐに私を映す、奥二重の目。 薄く整った唇も、あまり大きくはない手も、全てが私を締め付ける。 私はそのまま、亮さんの背中に手を回した。 いつも亮さんを抱きしめる時は、力加減に気をつける。 首に巻くスカーフのように、ふわりと柔らかで、邪魔にならないように。 まとわりつかないように。 でも、もういい。 今日は違う。 私は両腕に想いをのせて、心のままにその背中を引き寄せた。 細く見えるのにしっかりと筋肉がついた強い背中は、私が力一杯抱きしめてもなんの影響もないようだった。 (もっと早く、こうすればよかった) 私は擦り寄る猫のように、亮さんの胸板に頰を押し付ける。 「…今日は甘えたい気分かな?」 からかうような甘い声でそう言って、亮さんは唇を寄せる。 想いが、もう、溢れる─── (早く気持ちを伝えたい、でも) 今は、もっとさわってほしい。 さわりたい。 初めて、心のままに。 私は目を閉じて、溶けるように亮さんの唇を味わった。 部屋中に、電子タバコの独特な匂いが漂っている。 私はタバコの臭いが嫌いだし、この匂いだって決していい匂いではない。 でもいつもベッドに横たわりながら香るこの匂いは、私にとってすでに、「亮さんの匂い」になっていた。 二人の、秘密の匂いに。 ベッドに腰掛けて電子タバコを楽しむ亮さんの背中を、私は裸のままで、じっと見つめる。 手を伸ばせば届くその背中。 今までは、手を伸ばしたりしなかったけれど。 私はシーツの下からするりと腕を抜き、亮さんの背中へ伸ばす。 その手が背中に触れる前に、亮さんはふいに振り向いた。 「俺さ、結婚することになったんだ」 ───。 一瞬、何のことだか理解できなかった。 修学旅行で合わせ貝のストラップを渡された時と同じように、この人は、いつも私の予想できないことを言う。 結婚。 確かにそう言った。 結婚することになったんだ、と。 「彼女の親が、なんかちょっと体調悪いみたいで」 「俺はまだ結婚なんてしたくないんだけど、急かされちゃってさ」 亮さんは、まるで夏休みの宿題を先延ばしにして叱られた子供のように、軽い口調で話しを続ける。 「しかも彼女の実家がある大阪に住みたいとか言われてさあ。ほんと面倒なんだよ」 「学校も変わるし、静にもそう簡単には会えなくなるし」 私はまるで水の中にいるみたいで、亮さんの声が遠くの方で鈍く響いていた。 ドン、ドン、と重苦しく、早く脈打っているのは、私の心臓だろうか。 私は今、どんな顔をしているのだろう。 ふと、森さんの横顔が眼に浮かぶ。 夕陽に照らされた、無垢な少女の横顔。 (私は、決めたんだ) 結果がどうなろうと、気持ちを伝えると決めて来た。 今まで、意味のある会話は何一つできなかった。 何も本当の言葉を伝えていないから。 だから決めたんだ。 きちんと想いを伝えると。 私は─── 「私も、結婚するの」 「え?」 「彼にプロポーズされて。今日はそれを伝えに来たのよ」 「…そうだったのか」 亮さんは少しだけ驚いたような顔をしたが、すぐにカラッとした笑顔になった。 何も考えていないであろう、いつもの笑顔。 「ほんと俺たちって、最後まで気が合うなあ」 はは、と笑う亮さんに、私もいつもの笑顔を見せた。 なんの意味もない、空っぽの笑顔を。 保健室の窓を、ひらひらと桜の花びらたちが横切っていく。 今日は風が強いみたいだ。 花びらが舞うその向こうでは、いつも運動部員たちがそれぞれの競技で汗を流している。 でも今日は、老朽化したフェンスの工事が行われるため、グラウンドに運動部員たちの姿はない。 もちろん、サッカー部もいない。 森さんのいない放課後の保健室は、とても静かだ。 私は日誌を開いてペンを持っているが、一向にペンは進まなかった。 (ぜんぶ、なくなっちゃったな) 音もなく舞う花びらを眺めていると、背後で勢いよく引き戸の開く音がした。 「せんせーい!」 聞き慣れた黄色い声を出して、森さんが入ってくる。 「あら、今日はサッカー部もおやすみ…」 ──と言いかけて、森さんの後ろにもう一人誰かがいることに気がついた。 太田祐樹だ。 細身で涼しげな顔をした太田くんは、どことなくばつが悪そうに保健室の入り口をくぐった。 「…あら、もしかして?」 「うん!昨日告白したらね、祐樹も私のことずっと好きだったんだってー!」 弾けるような満面の笑みを浮かべて、森さんは心底嬉しそうに報告してくれた。 太田くんの顔が、みるみる赤くなる。 「おい!お前なあ!」 「いいじゃん!先生にはすっごく協力してもらったんだから〜!一番に報告するって決めてたんだ!」 あーでもない、こーでもないと、二人はじゃれ合うように言い合った。 獲れたての魚みたいに新鮮で、活きのいいキラキラの恋。 これからどうなっていくかなんてわからないけど、今は、この恋が相思相愛で本当に良かったと心から思う。 「おめでとう、森さん。よかったわね」 「ありがとう!今度からは堂々とサッカーの応援できるよ〜」 「私もゆっくり日誌が書けるかな」 私が笑うと、森さんも声を出して快活に笑った。 (ああ、そうか) 私に見せる亮さんの笑顔は、無邪気な子供の笑顔に近いのかもしれない。 何も深くは考えず、ただその場が可笑しかったから笑っただけの笑顔。 子供ならよくても、大人だと、それだけでは満ち足りない。 「あ!先生コレ!」 森さんは私の白衣のポケットに手を伸ばし、素早く中身を引き抜いた。 「あ、こら」 「スマホに変えてるー!!ずっとガラケーだったのに!」 森さんの手には、昨日買ったばかりのスマホが握られている。 その携帯にはまだ私自身も馴染みが浅く、自分のものという実感がわかない。 「…まあ、なんとなくね、新しいのもいいかと思って」 「うんうん、絶対便利だよー!アプリとかいっぱいあるしさ。あ、でもあれは?」 「え?」 「修学旅行で買ったストラップ!あれかわいいし、スマホだってほら、この穴のところにストラップつけられるよ」 そう言って森さんは、スマホの底辺にある小さな穴を教えてくれた。 「…あれはね、糸が切れて、どっか行っちゃったんだ」 「えー!?そうなの?もったいなーい」 「…ふふ。でもまあ、またいいのを見つけるわ。新しいスマホに似合うのをね」 「そだね!可愛いのいっぱいあるしね〜」 今日は一緒に帰るんだ、と歌うように言って、二人は保健室を後にした。 しばらくすると、窓の外に並んで歩く二人の姿が見えた。 桜吹雪の下を、満開の笑顔で歩いて行く。 「…眩しいなあ」 窓を開けると、暖かな強い風が勢いよく吹き込んだ。 保健室の滞った空気が入れ替わり、桜の花びらがあちこちに舞い込む。 私はそっと、机の引き出しを開いた。 そこには、古い携帯電話から外された合わせ貝のストラップがある。 まっすぐに私を見つめてくれるあの人の瞳に、子供みたいな浅はかな笑顔に、私は、確かに恋をした。 (どう考えても、ダメな男だけど) 私はくすりと笑って、ストラップを手に取った。 それでも私は─── 「……好き」 合わせ貝の上に、ひらりと花びらが舞い落ちた。 その花びらを、こぼれ落ちた水滴が濡らす。 「私はあなたが、好きでした」 言葉にすると溢れるように、気持ちも涙もこぼれ落ちた。 「ばいばーい!!」 大きな声に顔を上げると、遠くから森さんが手を振っているのが見えた。 私も小さく、手を振り返す。 きっとあそこからは、私の顔までは見えないだろう。 森さんが大人だと思っている私は、好きな人に気持ちひとつ伝えられず、一人でぐずぐずと泣いているのだ。 「子供でも、できるのになあ…」 幸せそうに並んで歩く、二人の後ろ姿を見送る。 好きな人に、「好き」と伝えることができる普通の恋。 私も、次はそんな恋をしよう。 きっと。 私は合わせ貝のストラップを、机の横にあるゴミ箱に落とした。 ちりん、と小さな鈴の音が、風の音に溶けた。
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