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#じいちゃんの花……夏
「クソ暑いな…」
バイクで走ってきたというのに、ヘルメットの際からは汗が滴り落ちていた。
こじんまりとした一軒家に駐車場はなく、仕方がないので近くの木陰にバイクを停める。
せっかく大学の夏休みだというのに、俺は母さんに言いつけられて、祖父母の住む家に来ていた。
森や田んぼばっかりの、典型的な田舎町。
(めんどくさいな…)
俺は少し、いや、だいぶ気が重かった。
ばあちゃんはともかく、じいちゃんは昔から頑固で気難しく、「怖い」という印象しか残っていない。
「おじいちゃんがね、軽い認知症らしいのよ。
おまけにおばあちゃんも体調がいまいちみたいだから、あんた様子見がてら行ってきてよ」
そう言われたのは、夏休み前日。
明日からのツーリングに向けて、いそいそと準備を進めていた時だった。
自分たちは仕事が忙しくてなかなか行けないから、というが、母さんが頑固なじいちゃんに少し苦手意識を持っていることを、俺は知っている。
「なんで俺が…」
「あんた、夏休み特に予定があるわけじゃないでしょ。心配だから、頼んだわよ。どんな様子か知らせてね」
俺の言葉にかぶせるように、母さんはそう言い放った。
目の前で荷造りしているのが見えていないのだろうか。
もっとも、『予定』というのが誰かと過ごすことを指すなら、ご指摘はごもっともだ。
俺は大学で友達がいない。
入学してすぐ、座った席が近かったとかで、なんとなく話すようになったグループはいた。
でもそのうち、その中の一人が悪く言われるようになった。
「あいつ空気読めないよな」と皆が言い始めた時、「別にそうは思わないけど」と思ったことを口にした次の日、その標的は俺に変わっていた。
驚いたのが、「空気が読めないやつ」と蔑まれていたそいつも、一緒になって俺に冷ややかな視線を送っていたということだ。
多勢について居場所を確保するあたり、十分に空気が読めていると思う。
やはり俺の目に狂いはなかったのだ。
俺はサークルにも属していないし、もちろんデートをする彼女もいない。
小学生からのツレは一人いるが、夏休みはインドへ旅に出ると言っていた。
俺も愛するバイクをお供に気ままな一人旅をする予定だったが、母さんの中でそれは『予定』に値しないのだろう。
俺は渋々頷くことになり、相棒にまたがってこんな田舎町まで来た。
(…まあ、気ままではないものの、ツーリングという目的は変わらなかったか…)
そんなことを思いながら、小さな、古い一軒家を見上げる。
緑に囲まれた木造の白い一軒家は、なにかのアニメ映画に出てきそうなレトロさを醸し出していた。
ここに来るのは、何年振りだろう。
ふいに家の扉が開かれ、小柄な女性が顔を出した。
細かい花柄のワンピースに薄いショールを羽織り、真っ白の髪は後頭部で小さくまとめられている。
「まあまあ、健ちゃん。いらっしゃい」
「ばあちゃん、久しぶり」
ばあちゃんは顔のシワを全部動かして、満面の笑みを浮かべている。
俺は一気に懐かしさがこみ上げ、なんとも言えない気持ちになった。
(ばあちゃん、なんだか小さくなった気がするな)
父さんも母さんも仕事が忙しかったため、俺は子供の頃、長期休みのたびにばあちゃんの家に預けられていた。
俺はここが大好きだったし、ばあちゃんのことも大好きだ。
でもなんとなく足が遠のいたのは、大人になって忙しくなったから…、というだけではない。
ふとばあちゃんの後ろから、大きな人影がこちらを覗き込む。
角刈りの白髪頭に、人を射抜くような目。
への字に結ばれた薄い唇。
180センチ近くある大きな体。
じいちゃんだ。
俺は無意識に、ひゅっと息を飲む。
(じいちゃんは、少しも小さくなってない気がするな…)
「…じいちゃんも、久しぶり」
俺は精一杯の愛想でへらりと笑ってみせる。
「健司、大きくなったな」
じいちゃんは目尻を下げて、にっこりと微笑んだ。
(───え?)
俺は驚きすぎて、たぶんハニワみたいな顔になっていたんじゃないだろうか。
(今、あのじいちゃんが笑った?)
子供の頃から、ムスッと座っているか、怒鳴られた印象しか残っていない。
いつも優しいばあちゃんとは対照的な、頑固ジジイだったというのに。
笑顔なんて、たぶん見たこともなかった。
今の今までは。
「さ、とにかく入って。暑かったでしょう、冷たい麦茶でも入れるからね」
ばあちゃんは少し可笑しそうに笑って、俺を家の中へと迎え入れてくれた。
家に入るとエアコンなんてものはついておらず、古びた扇風機がぬるい風を振りまいていた。
それでも、開けっ放しの窓や縁側からは心地いい風が吹き抜け、じっとしているとすぐに汗は引いた。
縁側から見える庭には、色とりどりの草花や野菜やらが植えられている。
この風景は、昔と何も変わっていないような気がする。
「お待たせね」
カラン、と氷のいい音をさせて、ガラスコップに入れた麦茶が運ばれてきた。
「ありがとう、ばあちゃん」
「あとで、スイカもあるからね。おじいちゃんが切ってくれるから」
ちらりと台所の方を見ると、じいちゃんが台拭きでダイニングテーブルを拭いているのが見えた。
(あんなこと、絶対しなかったのにな…)
一体じいちゃんに何が起こったのか、俺には分からなかった。
認知症って、こんな風にもなるものなのだろうか。
「和子、そろそろ時間だぞ」
「ああ、そうですね」
じいちゃんがばあちゃんを名前で呼んだことにも驚いたが、とりあえずそこはスルーすることにした。
「何か用事?」
「用事じゃないんだけどね、いつも朝と、夕方これぐらいの時間に散歩に出るのよ。運動もしなきゃね」
そう言ってお盆を下げに戻ったばあちゃんの足取りは、たしかにだいぶおぼつかなかった。
(脚、悪くなったのか…)
まだ元気な頃の二人しか記憶にない俺は、なんだか少し心が痛んだ。
あんなに世話になったのに、こんなに長い間顔も見せなかったのだ。
時間の流れというものは、若い俺と、年老いた二人に平等ではない気がした。
「健ちゃん、一緒にお散歩行く?それとも家でゆっくりしてる?」
「…俺も行くよ、暇だしね」
俺は麦茶を飲み干して氷を口に含み、立ち上がった。
木、草、田んぼ。
視界に広がる景色は、まとめると全て緑一色に見える。
緑色の道を、じいちゃんとばあちゃんが並んで歩いていた。
ばあちゃんは片手で杖をついていて、もう片方の手でじいちゃんの腕を掴んでいる。
こんな風に二人が並んで散歩しているなんて、なんだか信じられなかった。
昔は、ばあちゃんが料理をしていても、洗濯をしていても、俺と遊んでくれていても、少し離れてただムスッと座っているだけだったのに。
(本当に、同一人物か…?)
たまに笑顔を見せながら歩く二人を、俺は少し後ろからまじまじと観察する。
「さ、ここに腰掛けましょ」
ばあちゃんは池のほとりにあるベンチに座って、俺を手招きした。
ばあちゃんが持ってきた籠バックから、水筒とプラスチックコップを取り出す。
水筒から注がれたのは、何やら赤透明の液体だった。
「なにこれ?」
「ヤマモモジュースよ。飲んでごらん」
ばあちゃんは三つのコップにジュースを注ぎ、一つを俺に手渡した。
よく冷えたジュースを一気に飲み干すと、さわやかな甘みが口いっぱいに広がった。
「うまい!…これ、俺飲んだことない?」
「ばあさんが毎年作ってるからな。健司も子どもの頃、よく飲んでいたんだぞ」
じいちゃんもコップに口をつけながら、答えてくれる。
こんな風に会話に参加してくることすら、俺の記憶の中のじいちゃんとは違って戸惑ってしまう。
「そっか、それで懐かしい味がするのか」
「あと、ここでよくアヒルに餌をやっていたのよ」
そう言ってばあちゃんは、籠バックの中から小さいビニール袋を取り出した。
ビニールの中には、細かいパンくずが詰められている。
ばあちゃんがそれを少しつまんで池に投げると、二匹のアヒルが、「ガア」と声を上げながら近寄ってきた。
思い出した。
たしかに、ここでよくばあちゃんと、アヒルに餌をあげて遊んでいた。
でもその時もなにか、じいちゃんに怒鳴られて泣いた記憶がある。
なんで怒鳴られたんだったか…怒鳴られたことが多すぎて、今となっては思い出せない。
「ほら」
パンくずの入った袋を、じいちゃんが俺に差し出す。
「アヒルが腹空かしてるぞ」
そう言って笑うと、じいちゃんも少しパンくずを池に放り込んだ。
アヒルたちは必死に、水面をつついている。
俺もビニールに手を入れて、パンくずを掴む。
こんな風に、じいちゃんと一緒にアヒルの餌やりをする日が来るなんて。
「おじいちゃん、変わったから驚いたでしょう」
俺の戸惑いを察したかのように、ばあちゃんがにっこり微笑みながらそう言った。
じいちゃんは、飲み干したコップを片付けにベンチへ戻っていた。
「黒飛先生がおっしゃるにはね、少しボケが入っているみたいなの。今はボケじゃなくて、認知症って言うんだったかしら。ボケちゃうとね、少し性格が変わったりすることもあるんだって」
「黒飛先生ってあの、お医者さんの?俺覚えてるわ」
「そうそう!健ちゃんも何度か診てもらったことあるもんねえ。黒飛さんはおじいちゃんのお友達だし、この村の人間はみんなお世話になってるもの」
「…ばあちゃんも、どっか具合が悪いんだって?」
「そうねえ。年寄りだから、色々とね。でも黒飛先生もいるし、おじいちゃんが助けてくれてるから大丈夫よ」
「…そっか」
「おーい、そろそろ帰るか。暑いから、長居は危ないぞ」
「はいはい、そうしましょうね」
ベンチから呼ぶじいちゃんに答えて、ばあちゃんが杖を持ってゆっくりと歩き出す。
俺はその後ろ姿を、ぼんやり眺めていた。
ばあちゃんは空っぽのビニール袋や水筒なんかを籠バッグにしまい、じいちゃんはその間、ばあちゃんがよろけないように背中に手を添えている。
俺はここに来る前の、重かった気持ちが消えていることに気がついた。
母さんから、ばあちゃんは具合が悪く、じいちゃんは認知症だと初めて聞いた時、もっとどんよりとした、暗くて重いものを想像したのだ。
昔大好きだった、楽しかったばあちゃんの家が、老いと病で淀んだ空気に包まれている。
正直、それを見たくなかった。
でも、実際は全然違った。
むしろ昔よりも、明るく温かな空気で満ちている。
(もっと早くこれば良かったな)
「ばあちゃん!カバン俺が持つよ」
「あら、ありがとねえ」
蝉の大合唱も、緑の道もたまには悪くない。
スマホがあればどこでだって暇つぶしはできる。
俺は始め、様子を見て三日ほどで帰ろうかと思っていたが、もう少しゆっくりしてもいいかなという気分になっていた。
ダイニングテーブルに並べられた夕食は、意外にも豪華なものだった。
綺麗に盛られた肉厚のお刺身を中心に、色とりどりのサラダや煮物、具沢山のお味噌汁。
「うわあ、めっちゃ美味そう。いただきます!うまい!」
さっそく刺身を口に運んだ俺を見て、二人が子供を見るような眼差しで微笑む。
「美味しいでしょう。ご近所の坂本さん、釣りが趣味でね。孫が来るって言ったら大きなお魚差し入れてくれたの。おじいちゃんがさばいてくれたのよ」
「え!?じいちゃん魚なんてさばけるの!?」
驚いてじいちゃんを見ると、じいちゃんの方がきょとんとした顔をした。
「なんだ、言ったことなかったか?俺は若い頃、板前してたんだよ」
「ええ〜!?聞いたことないよ!」
というか、会話がほとんどなかったような。
「それにじいちゃんが料理してるとこなんて、見たことなかったような…」
「そうなのよ。仕事で散々料理してきたから、家ではしたくないなんて言ってね。でも──」
ばあちゃんが、ふふ、とイタズラっぽく笑う。
「おじいちゃんは私の作る料理が好きだから。本当は、家では私の料理が食べたかったのね」
ばあちゃんの言葉を聞いて、じいちゃんの箸がグッと止まる。
驚いたような、飯が喉に詰まったような顔で硬直している。
「あら、違いましたか?ごめんなさい」
ばあちゃんは悪びれない。
「……いや、そうだな、そういうことも、ある」
じいちゃんも少し笑って、またもくもくとごはんを食べ始めた。
(…昔なら、あり得なかった会話だな…)
何を言ってんだ、とじいちゃんが声を荒らげるんじゃないかと思ったが、今の二人にそんな心配は無用なようだ。
(じいちゃん、ボケたほうがうまくいってるんじゃないの)
そんな考えがふと浮かんだが、不謹慎なのでかき消した。
ばあちゃんが洗った皿を拭きながら、俺はちらりとじいちゃんを覗き見た。
じいちゃんは椅子に腰掛け、新聞を読みながらお茶を飲んでいる。
こうして見る横顔は、髪が全部白髪になった以外、昔と変わらない気がした。
「…じいちゃん、ほんとに変わったね」
「そうかもしれないわね。でも私にとってはね、そこまで大きな変化はないのよ」
「え?」
「おじいちゃん、昔から優しい人だったから」
スポンジに泡を足しながら、ばあちゃんは信じられないことを言った。
「優し…かったかなあ?」
「下手なのよね。優しさを、形にするのが」
そう言ってからばあちゃんは、ふふ、と可笑しそうに笑った。
ばあちゃんの笑顔は、まるで大学の女の子と変わらないあどけなさがあると思う。
「さっきは、いじわるしちゃったわね」
「え?ああ、あの、料理のくだり」
「ふふ、おじいちゃんが私の料理を好きなのは知ってたけどね。一度言わせてみたかったのよね」
じいちゃんの固まった顔を思い出して、俺もなんだかおかしくなって笑った。
こうしていると、昔この家で三人で過ごした時間が蘇ってくる。
そういえばじいちゃんは、ばあちゃんの作ったご飯をいつも黙々と完食していた。
子供から見ればムスッとしているようにも見えたが、あれは確かに、美味いから味わっていたともとれる。
「健ちゃんは、恋人はいるの?」
「え!?ああ…いや、今はいないかな」
思わぬ質問が飛んできて、皿を落としそうになる。
正確には、高校時代一度奇跡的に彼女ができた以外、恋愛経験は皆無だ。
「恋人ができたら、ぜひ一度ここに連れてきてね」
「……気長に待っててくれる?」
「ふふ、楽しみにしてるわ」
普段家で手伝いなどはほぼしないが、他愛もない話をしながら台所に立つのは、なんだか悪くない。
子供の頃は怖かったお茶を飲むじいちゃんの背中も、今は笑っているようにすら見えた。
目の前に白い光が満ちて、俺はうっすらと目を開ける。
昨日カーテンを開けっぱなしで寝たから、二階にある寝室の窓からは眩しいくらいに朝日が射しこんでいた。
枕元のスマホを手に取ってみると、まだ6時半だった。
これで鳥のさえずりでも聴こえていたら最高の朝なのかもしれないが、残念なことにこの時間でも蝉が大合唱を繰り広げていた。
「…あれ」
体を起こして窓の外を見下ろすと、庭を歩く二人の姿が見えた。
昨日と同じく、腕を組んでゆっくりと歩いていく。
「そういや、朝と夕方散歩するって言ってたな…」
昨夜は旅疲れのせいか早く寝たので、二度寝する気にもなれなかった。
顔でも洗おうと一階に降りると、ダイニングからコーヒーのいい香りが漂ってくる。
香りの出どころは、キッチンに置いてあるコーヒーマシンだ。
「お、いただくか…」
食器棚から適当なコップを拝借して、俺はコーヒーを注ぐ。
テーブルの上には、二人のものと思われるマグカップが並んで置いてあった。
朝、二人でコーヒーを飲んでから散歩に出かけたのだろう。
(仲、いいよなぁ…)
そういえば、じいちゃんとばあちゃんが喧嘩しているところは、見たことがなかった。
昔から、二人は仲が良かったのかもしれない。
俺はゆっくりとコーヒーを楽しんだ後、サンダルを履いて庭に降りた。
まだ日差しも少しは柔らかで、緑やら、赤やら黄色やらオレンジやらがキラキラしている。
(ばあちゃん、足悪いのによく手入れしてるよなあ)
花の種類なんてわからないけれど、のびのびと咲き誇ったたくさんの花たちは、やっぱり綺麗だと思う。
しゃがみこんで、コーヒーをすすりながら花を眺めてみる。
花壇の端、少し日陰になったところに、レースのようにひらひらした青紫色の花が数本咲いていた。
なんとなくその花に手を伸ばした、その瞬間──
「触るな!!」
聞き慣れた怒鳴り声が響き、俺は反射的に硬直する。
振り返ると、散歩から戻ったじいちゃんとばあちゃんが立っていた。
「…お、かえり」
「…その花は、触るとかぶれるから触っちゃいかん」
ほんの一瞬で、じいちゃんは元の穏やかな表情に戻っていた。
「あ、そうなんだ…」
「もうすぐ朝飯だから、手を洗ってきなさい」
そう言ってにこりと微笑むと、じいちゃんは家に入っていった。
「…ビックリした、昔のじいちゃんに戻ったかと思った」
「ふふ、そういえば昔も、よく庭のバラを触ろうとして怒鳴られてたわね」
ばあちゃんが懐かしむように、今は葉だけになっているバラ、であろう植物に目をやる。
「昔、花壇と野菜畑以外のお庭は綺麗な芝生だったのを覚えてる?」
「ああ…、そういえばそうだったね。俺、よく庭で走り回ってた気がする」
子供だった俺にとっては、この庭だけでも少し遊ぶには十分な広さだった。
夏はビニールプールを出してもらって、ずっと遊んでいた気がする。
「おじいちゃんね、健ちゃんが来るとなると、いつも丁寧に芝刈りしてね。小石まで全部拾ってたのよ」
「じいちゃんが?」
「健ちゃんが転んで怪我したり、草で手足を切ったらいけないからって」
(あのじいちゃんが…?)
俄かには信じられない気持ちだった。
だってそんな、そんな優しい言葉は一度もかけてもらったことがなかったのに。
「おじいちゃんね、今回健ちゃんが来るって連絡が来た時──」
ばあちゃんは、ふふ、と堪え切れないように笑った。
「じゃあ芝を狩らないとな、って言って、庭に出ようとしたのよ。健ちゃんはもうお庭で遊ぶような歳じゃないわよって言ったら、ハッとして、そうか、って」
「ちょっと照れちゃってたわ」
「…じいちゃんが……」
「もう、癖なのね。これ話したこと、おじいちゃんに内緒ね」
ばあちゃんはウィンクでもしそうな笑顔を浮かべたが、俺はなんだか胸がいっぱいになった。
(そうだ、思い出した)
庭でよく怒鳴られたのは、俺がいつもトゲのあるバラを触ろうとしたからだった。
池で怒鳴られたのも、いつもアヒルの餌やりに夢中になって、柵から身を乗り出し過ぎていたからだ。
さっきだって、かぶれる花に触ろうとしたから。
じいちゃんがいつもムスッとこちらを見ていたのは、危ないことをしていないか、見守っていたのかもしれない。
怒鳴ったのは、心配してくれていたから──。
ばあちゃんが言った言葉が、頭に浮かぶ。
『下手なのよね。優しさを、形にするのが』
じいちゃんは確かに今も昔も、そんなに変わっていないのかもしれない。
昔は俺が、そのことに気づけなかっただけで。
なんだか熱いものがこみ上げてきそうな気がして、俺は話題を変えることにした。
「ここの花って、全部ばあちゃんが手入れしてるんだろ。足悪いのに大変だな」
「まあ慣れてるし、花は目を楽しませてくれるからね。ほとんどは私だけど、野菜畑と、この花はおじいちゃんが植えたわね」
そう言ってばあちゃんは、小さなスペースに並んだ背の高い葉(おそらく何かの野菜)と、さっき俺が触ろうとした青紫色の花を指差した。
「あの花、じいちゃんが植えたんだ。ヒラヒラしててきれいだな」
「…そうね。この花壇には不似合いかもしれないけど、おじいちゃんの好きにしたらいいと思うわ」
俺には花の組み合わせなんてよくわからない。
でもそう言ったばあちゃんの笑顔は、なぜか少し悲しそうに見えた。
朝飯を食べてから、じいちゃんは野菜の世話、ばあちゃんは掃除やら縫い物やらを、俺はというと、スマホ片手にゴロゴロと過ごしていた。
インドに行っている修之から「腹を下した」とメッセージが来て、「少しは痩せるんじゃないか」と返しているところだ。
インドと日本でこんなくだらないやりとりができるんだから、本当にスマホさえあればどこでだって生きていけそうな気がする。
そんなことを考えていると、一階からばあちゃんの呼ぶ声がした。
「なにー?」
階段を下ると、じいちゃんとばあちゃんが玄関前に立っている。
「これからちょっと病院に行ってくるから、お留守番お願いね。鍵はここに置いておくから、出かけてもいいからね」
「病院って、黒飛先生のとこ?俺も行こうか?」
「大丈夫よ、おじいちゃんがついて行ってくれるから。近所の源さんが車で送ってくれるしね」
「そっか、じゃあ行ってらっしゃい」
「行ってきます」
二人が出て行くと、家の中は急に静まり返ったような気がした。
二人は家にいても、特に話しをするわけでもなく、大きな音を立てていたわけでもないのだけれど。
じいちゃんばあちゃんとこの家は、俺にとってセットのようなものなのだ。
この家には、いつもあの二人がいた。
優しく笑うばあちゃんと、ムスッとしたじいちゃん。
「…懐かしいなあ」
リビングの端にある本棚に目をやると、たくさんの本の中に、いくつかの絵本があった。
それはどれも見覚えのあるタイトルで、子供だった俺のために用意されたものだとわかった。
(…ずっと、置いててくれたんだな)
じんわりと、胸の辺りが温かくなる。
何年も来ていなかったのに、この家には、当たり前のように俺の居場所がある。
じいちゃんとばあちゃんが、ずっと待っていてくれたから。
ふと、一番下の段に並んだ数冊のノートを見つけた。
「ずいぶん古いノートだな…」
俺は一冊を手にとって、中を開いてみる。
「たまごやき、たまご、だし、さとう…」
ペラペラとページをめくると、全ページにぎっしりと料理のレシピが書かれていた。
おそらく、じいちゃんが昔書き溜めたノートなんだろう。
(ほんとに料理人だったんだな…)
なんとなくページをめくっていると、『茄子の煮浸し』と書かれたレシピが目に留まった。
そういえば台所に置かれた籠の中に、菜園で収穫したであろう茄子が積まれていたのを思い出す。
「ちょうど退屈してたしな…」
フライパンの中で茄子がクタクタになった頃合いに、ちょうど玄関のドアが開く音がした。
「ただいま〜、あら、健ちゃん」
ダイニングに入ってきた二人は、台所にいる俺を見て驚いたような顔をした。
「何か作ってるの?」
「うん。ちょっとこれ見つけてさ」
ノートを持ち上げてみせると、じいちゃんが小さく「あ」と言った。
「いっつも二人にご飯作ってもらってるし、お礼というか…、まあ、暇だったし、一品だけなんだけどね」
「嬉しいわ、すごくいい匂い!ねえ、おじいちゃん」
「ああ、そうだな」
じいちゃんは薬の入った袋を、水屋の上に置いた。
何種類の薬が入っているんだろう、と思うほど、袋はパンパンだった。
年寄りというのは、あんなにも薬を飲むものなのだろうか。
「さあさ、夕飯の下ごしらえはできてるし、さっそくご飯にするわね」
そう言って台所へ入ったばあちゃんと入れ違いに、俺は台所から出た。
一度自分の部屋へ戻ろうと思ったが、じいちゃんがダイニングの入り口に立ち尽くしていて通ることができない。
じいちゃんの視線を追うと、台所に立つばあちゃんの背中があった。
昨日と、昔と何も変わらない、ばあちゃんの背中。
じいちゃんは、感情がないような、いや、悲しいような、怒っているような…なんとも言えない表情で視線を送っていた。
「じいちゃん…?」
そっと呼びかけると、じいちゃんはゆっくりと俺に視線を移した。
「…ああ、すまん。邪魔だったな」
にこやかに笑って、入り口の前を空けてくれる。
(……?)
なんとなく違和感を感じたが、俺は深く考えずに、ダイニングを後にした。
「さっそくいただくわね」
食卓には相変わらず美味しそうな料理が並んでいたが、じいちゃんとばあちゃんは、一番に俺が作った茄子の煮浸しに箸をのばした。
自分の作った料理を人に食べさせるのは、なんだか緊張するものだと初めて知った。
「美味しい!よく味が染みてるわぁ」
ばあちゃんにそう言われ、ほっと胸をなでおろす。
一方じいちゃんは、一口食べて箸が固まっている。
「…健司は、普段から料理をするのか?」
「え?いや、小学校の家庭科でやったことがあるくらいかな」
はは、と笑うも、じいちゃんに笑顔はない。
やっぱり元料理人の舌に、素人料理はまずかっただろうか。
「でもあのノートのレシピは、材料は書いてあったが分量は書いてなかっただろう?」
「ああ、そうそう。でも調味料入れる順番は書いてあったからさ。一つ入れるごとに味見しながら足していったんだ」
じいちゃんは、珍しいものでも見たような顔で俺をじっと見つめた。
「ふふ、驚いたのよねえ。だってこれ、本当に美味しいもの。生姜がよくきいてて、おじいちゃんの作る煮浸しにそっくり」
「…そうなの?」
ちらりとじいちゃんに目をやると、じいちゃんはもう一口、茄子を口に運んだ。
「…味を見れるということは、料理をするにあたって大事なことだ」
つまりは、うまい、ということだろうか。
俺はふわりと胸が弾むのを感じた。
あのじいちゃんに、褒められたのだ!
「健ちゃんはおじいちゃんに似ているところがあるから、料理の才能もあるのかもね」
「えっ!俺とじいちゃんが似てる!?」
思わず大きな声を出すと、じいちゃんがジロリと横目で睨む。
しまった。
「ふふ、まっすぐで、世渡り下手なところとかね。健ちゃん、よく昔は近所の子らと遊んでたけど、たまに喧嘩になることがあったのよ」
「そう?あんまり記憶にないなあ…」
「自分がこうと思ったことは、相手と意見が違ってもハッキリ言う子だったから。でも喧嘩になっても、結局嫌われたりすることはなかったわ。筋が通っていたからね」
俺は大学での出来事を思い出した。
小さな子供同士なら、意見がぶつかったとしてもすぐに忘れて仲良くできるだろう。
でもある程度大人になると、「空気を読む」ことを求められる。
周りと違った意見を述べただけで、二度と仲間にはなれないことも少なくないのだ。
無論、こっちからも願い下げなのだが。
でも、ばあちゃんがそんな風に俺のことを見ていてくれたことは、なんとなく誇らしかった。
「そうだ!健ちゃん、おじいちゃんにお料理教えてもらったら?健ちゃんならきっと、すぐにレパートリー増えるわよ」
ばあちゃんはすごくいいことを思いついたというように、目を輝かせた。
「ねえ、おじいちゃん」
「…気が向いたらな」
そう言ってじいちゃんは、黙々と茄子を口に運んでいる。
なんだか昔のじいちゃんみたいだけど、もう怖いとは感じなかった。
じいちゃんは今も昔も、変わらないのだ。
夕食を終えて風呂からあがると、じいちゃんがダイニングテーブルの椅子に腰掛けていた。
いつもなら、俺が風呂から上がる頃には二人とも寝ていることが多い。
声をかけようと思ったが、しんとしたダイニングに佇むじいちゃんの背中は、なんだか話しかけづらい空気を醸し出していた。
じいちゃんの背中越しにちらりとテーブルを覗き込むと、夕方に病院からもらってきたばあちゃんの薬が並べられていた。
どうやら種類ごとに分け、組み合わせ、壁掛け袋に詰めてるようだ。
(ばあちゃんが飲み忘れないように、仕分けてるのか…)
俺はそっと気配を消しながら、自分の部屋へと戻った。
ベッドに横になると、窓の外からはまだ蝉の鳴き声が響き渡っている。
いったい何時まで鳴くのだろう。
でも、昼間ほど暑苦しく感じないのが不思議だ。
この家は、なんだか落ち着く。
太陽が昇れば起きて、沈めば寝る。
そんな暮らしを、じいちゃんとばあちゃんはずっと続けてきたのだ。
子供だった俺は、ばあちゃんが一方的に我慢強く、じいちゃんを支えているのだと思っていた。
でもそれは違う。
じいちゃんは、ばあちゃんを大切に思っている。
じいちゃんの目線が、それを物語っている。
ばあちゃんを見る、じいちゃんの目。
あの目は、そうだ。
「慈しみ」という言葉がぴったり当てはまる。
ちょっと恥ずかしいくらい、じいちゃんとばあちゃんはラブラブなのだ。
昔の何も話さないじいちゃんを見ていても、それに気づくことはできなかった。
きっと母さんたちも解っていないのではないだろうか。
でも今は、確信が持てる。
そしてもう一つ、気づいたことがある。
(でも、だとしたら、何のために…?)
「ジジッ!ジッ!!」
「わっ!!」
突然、窓ガラスにコツン!と何かがぶつかり、俺は思わず声をあげた。
今の鳴き声は、クマゼミか。
窓に突進してぶつかり、飛んで行ったようだ。
「…あ」
窓の外を覗き込むと、庭に人影が見えた。
じいちゃんだ。
花壇の前で、じっと立っている。
(何してるんだ…?)
じいちゃんは微動だにせず、花壇を見下ろしていた。
上から見ると、じいちゃんの背中はひどく小さく、丸く見える。
俺はまた声をかけることができず、部屋の電気をそっと消した。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
数日後、天気のいい朝、俺は帰り支度をして家を出た。
じいちゃんとばあちゃんが、笑顔で見送ってくれる。
「10日間、楽しくてあっという間だったわ」
「また来るよ。冬休みもあるしね」
「気をつけて帰るんだぞ」
「うん、じいちゃんもばあちゃんも、体に気をつけてね」
「ああ」
「ありがとうね」
俺は木陰に停めてあるバイクに向かい、歩き出す。
「気づいたこと」について、じいちゃんに聞く機会はとうとうなかった。
じいちゃんとばあちゃんはいつも一緒にいるからだ。
いや、そうでなくても、聞く必要なんてないのかもしれない。
「ああ、そうだわ」
バイクにまたがろうとしている俺のところに、ばあちゃんが近付いてくる。
「これ、持って行ってちょうだい」
差し出されたのは、透明のボトルに入った赤透明の飲み物だった。
「ヤマモモジュースだ!ありがとう」
はあちゃんは少し話した後、いつもの優しい笑顔でこう言った。
「いつでもおいで。私たちは、いつでもここにいるから」
「…うん、絶対来るよ」
大学の女子たちよりも可愛らしく、弾けるような笑顔を見せてから、ばあちゃんは一歩後ろに下がった。
俺はヘルメットをかぶり、バイクのエンジンをかける。
じいちゃんとばあちゃんは、俺が見えなくなるまでずっと見送ってくれた。
ばあちゃんが亡くなったと連絡が来たのは、それからたった一ヶ月後のことだった。
現実味を感じないまま、俺は家族と一緒に、またこの家に来ていた。
黒い服を着た人々が家の中をうろつき、たくさんの人が挨拶に来ている。
一ヶ月前にきたばあちゃんの家とは、違う場所のようだった。
ばあちゃんは、黒い額縁の中で微笑んでいる。
「…ばあちゃん」
あまりの事に、涙も出なかった。
ばあちゃんは癌を患っていて、一ヶ月前には余命宣告を受けていたらしい。
家族の誰も、知らされていなかった。
おそらく、じいちゃん以外は。
ばあちゃんは最期まで、じいちゃんと二人で静かに、何にも逆らわず、この家で過ごしたのだ。
じいちゃんに目をやると、ただじっと正座をしている。
弔問客に頭を下げる以外は、銅像のように動かなかった。
太ももの上に置かれた手は、固く握られている。
じいちゃんの悲しみが、肌を刺すように伝わってきた。
「奥さんが先に亡くなるなんてねえ、気の毒に」
「奥さんに先立たれたら、男の人は何にもできないわよ。娘さんがお世話に帰ってくるんじゃない?」
どこかのおばさんたちが、コソコソと話す声が聞こえた。
じいちゃんのこと、何もわかっていない。
じいちゃんは、なんでもできるのだ。
料理も、洗濯も掃除も、全て自分でできる。
ただ、ばあちゃんがいなければ何もできないというのは、あながちハズレではないかもしれない。
それほどに、じいちゃんはばあちゃんを愛していた。
「健司、あんた何キョロキョロしてるの」
母さんが俺の袖口をぐっと引っ張る。
「いや、ちょっと…」
まだ葬式が始まる前なので、家の中や玄関先やらで、は弔問客がざわざわと話し込んでいる。
俺は家の中を見回して、ある人物を探していた。
ふと、縁側で庭を見ている初老男性が目にとまる。
白髪も増え、少し横幅が広くなったような気がするが、間違いなくその人だ。
「黒飛先生」
先生は振り返り、少し間を置いてすぐ満面の笑みを浮かべた。
「健司くん、健司くんだろ。いやあ、大きくなったなあ」
「ご無沙汰してます。あの、ちょっとお話があるんですが…」
葬式が済んで弔問客の見送りを済ませると、家の中に静寂が戻った。
だけどやっぱり、元どおりにはならない。
温かなばあちゃんの笑顔が、優しい声が、この家から失われてしまったのだ。
「…今後、どうしようか」
「そうだなあ、お義父さん、認知症の進み具合はどうなのかな?」
「昨日からの様子を見た限りでは、なんだか昔と変わらないようだけど…前に様子を見に来た時には、人が変わったみたいだったしねぇ」
「波があるのかもな」
「どのみち、一人にしておくわけにはいかないわ」
「そうだなあ。でも俺には仕事があるからなあ…」
ダイニングテーブルで冷めたお茶を飲みながら、父さんと母さんは気怠そうな会話を繰り広げている。
母さんは葬式で泣いたせいで、化粧が落ちて目の下が黒ずんでいた。
縁側では、じいちゃんが腰掛けて庭を眺めている。
父さんと母さんが堂々巡りの話し合いをしている間に、ふと、じいちゃんが立ち上がった。
俺はすかさず、空気の重いダイニングテーブルから離脱して庭へ向かう。
じいちゃんはまっすぐに花壇へと歩いていく。
花壇の前で立ち止まると、じいちゃんはしばらく立ち尽くし、呟いた。
「どうして」
じいちゃんの見下ろしている花壇には、ばあちゃんが手入れした綺麗な花々が咲き誇っている。
ただ、じいちゃんが植えた花だけが姿を消していた。
すべて根から引っこ抜かれていたのだ。
「…きっとばあちゃんだよ」
背中越しに声をかけると、じいちゃんが怪訝な顔で振り返る。
「そこにあった青紫の花、トリカブトだろ」
じいちゃんは、何も答えない。
「…俺、調べたんだ。なんとなく気になって」
「猛毒がある、トリカブトだった」
最初、俺にはその意味がわからなかった。
じいちゃんがなぜ、トリカブトを植えたのか。
あの夜、どんな気持ちでその花を見下ろしていたのかも。
でもばあちゃんが亡くなって、一気に線が繋がった。
10日間二人と一緒に過ごして、「気づいたこと」の意味についても。
「じいちゃんさ、ボケてなんかいないんだろ」
俺は数歩前に進み、じいちゃんの横に並んだ。
じいちゃんは正面から顔を動かさず、目だけでちらりと俺を一瞥した。
「わかるよ、10日も一緒にいたらさ。薬の仕分けも、料理も、日常のこともなんだってできる。ただ優しくなるだけなんて、そんな病気ないって」
俺が笑ってみせても、じいちゃんは花壇を見つめたまま表情を変えない。
「黒飛先生ともさっき話したよ」
「…医者の守秘義務を破りやがって」
やっと声を出したじいちゃんは悪態をついたが、本気で怒っているようには見えない。
それくらいの違いはもう、俺にはなんとなくわかるようになっていた。
「はは、よく言うよ。医者に嘘つかせといてさ。先生言ってたよ。じいちゃんに頼まれた時はさすがに迷ったけど、ばあちゃんなら、その嘘の意味がわかると思ったから引き受けたって」
「……」
「俺も、ばあちゃんはわかってたと思うよ」
「…ばあさんは、昔からなんでもお見通しだからな」
ほんの少し笑ったように見えたじいちゃんは、泣いているような顔にも見えた。
ばあちゃんが癌だと聞いて、じいちゃんはきっと、ばあちゃんに優しくしたかったのだ。
優しい言葉をかけたかった。
でも、じいちゃんにはそれができない。
だからじいちゃんは──
「ボケたフリしなきゃ優しい言葉もかけられないなんて、じいちゃんどんだけ不器用なの」
あはは、と俺は声を出して笑った。
笑ったはずなのに、目からボトボトと涙が落ちてびっくりした。
それは全然止まらなかった。
「ばあちゃん、言ってたよ。じいちゃんは昔から、優しかったって」
「……」
涙で視界が歪み、花壇の赤や白や黄色やらがぐにゃりと混ざる。
ばあちゃんが育てた、きれいな庭。
じいちゃんはそこに、毒を植えた。
ばあちゃんがいなくなったら、一人では生きていけないから。
夜中に花壇を見下ろしていたのは、ばあちゃんが余命宣告を受けた日だったのだ。
俺の作った茄子の煮浸しを食べながら、三人で笑ったあの日。
美味しいと言って笑っていたあの日。
「じいちゃん、生きてここにいてよ」
「ここは、じいちゃんとばあちゃんのうちだろ」
涙で声が頼りなく揺れる。
気持ちを吐き出したら、涙はやっとおさまった。
「ばあちゃんもきっとそう願ってる。だからトリカブトを抜いたんだよ」
じいちゃんはズボンのポケットからハンカチを取り出して、俺の前に差し出した。
俺は黙って受け取り、頰に残った水滴を拭き取る。
鼻も噛みたかったが、遠慮しておいた。
「…抜いた花は、ちゃんと処分したのか?弔問客が触れたら大ごとだぞ」
「大丈夫だよ。もちろんちゃんと袋に入れて…」
─────あ。
じいちゃんがじろりと俺を見た。
その目に怒りは感じられないが、俺は思わずフリーズする。
「…亡くなる前は、ベッドから起き上がるのも一苦労だったからな。庭で花を抜くなんてことは、できるわけがない」
「……ごめん、嘘ついて」
「別に怒っとらん」
じいちゃんはしゃがみこみ、手前の方にあるピンク色の花の、枯れた部分を手で折り取った。
ばあちゃんが寝たきりだったなら、庭の手入れはじいちゃんがしていたのだろう。
ばあちゃんが愛した庭だから、きっと、精魂込めて。
「…たしかにトリカブトを抜いたのは俺だけど、ばあちゃん、俺が帰る日に言ってたんだ」
あの日、バイクにまたがろうとした俺のところに、ばあちゃんはヤマモモジュースを持ってきてくれた。
「これ、持って行ってちょうだい」
「ヤマモモジュースだ!ありがとう」
「ヤマモモはね、あの花壇の後ろにある木だよ」
ばあちゃんが指差す方を目で追うと、花壇の奥に緑の濃い木が見えた。
小さな赤黒い身が、たくさんなっている。
「あれがヤマモモかあ。そういや昔教えてもらった気もするなあ」
俺が昔の記憶を引っ張り出していると、ばあちゃんはポツリとこう言った。
「…あの花、やっぱりおばあちゃんはあんまり好きじゃないのよねぇ」
「え?」
「おじいちゃんが植えた花。いきいきとした夏の花たちと、美味しい実のなるヤマモモの木があるお庭には、似合わない気がするわ」
「…そう?」
「ふふ、ヤマモモジュース、冷たいうちに飲んでね」
「え、ああ、うんありがとう」
ばあちゃんがそんなことを言うなんて、珍しいと思った。
じいちゃんのすることなら、なんだってニコニコ笑って受け入れそうなのに。
そしてばあちゃんがなぜ急にそんなことを言ったのか、なんとなく気になった。
気になったから、調べるに至ったのだ。
「…きっとばあちゃんは、俺に気づいて欲しかったんだよ。あの花がなんなのか、どうしてじいちゃんが植えたのか」
「……」
しゃがんだじいちゃんの背は、やっぱり小さく見えた。ばあちゃんを失った痛みが、重くのしかかっているように丸まった背中。
「ねえ、じいちゃん俺に料理教えてよ」
唐突な申し出に、じいちゃんは少し驚いたような顔で俺を見上げる。
「俺、あんまりやりたい事とか見つからなかったんだけどさ。茄子の煮浸しを二人に美味しいって食べてもらった時、なんか嬉しかったんだよね」
「作ってる時も楽しかったし、なんか料理っていいかもって思って」
「それに、料理できる男ってモテそうだし」
俺がそう言うと、じいちゃんはすっと花壇に目を戻した。
最後のは少しハズしただろうか。
でも料理を教えて欲しいというのは、じいちゃんを元気づけるために思いつきで言い出したというわけではない。
本当に、興味を持ったのだ。
自分の手であれこれ調味料を足し、一つのまとまった味になる。
それは俺にとって、とても面白い作業だった。
そしてそれを誰かに食べてもらう事も、思いがけず心が満たされた。
モテそうだと思ったのも、もちろん本音の一つだ。
「…料理ができても、モテんぞ」
「え?」
じいちゃんが花壇に目をやったまま、ボソッとつぶやいた。
「料理ができるよりも、男は素直な方がモテる」
「……」
俺は思わずブハッと吹き出した。
「あはは!説得力ありすぎ!」
なんせじいちゃんは、ボケたふりをしないと好きな人に優しくできないほど、素直じゃないのだから。
そして最高に美味しい料理を作れる、優しい男だ。
「いいよ。俺はばあちゃんみたいないい女見つけるから」
そう言うと、じいちゃんは一瞬驚いたような顔をして、それからふっと優しい顔で笑った。
「…なかなかいないぞ、あんなのは」
「だから料理教えてよ。胃袋からいい女掴むからさ!ばあちゃんに約束したんだよね。彼女できたら、ここに連れてくるって」
「…気が向いたらな」
「はは、気を向けてよ!」
じいちゃんはすっと立ち上がり、くるりと後ろを向いた。
「どこ行くの?」
「ばあさんが買ってあった花の苗がある。お前があけたその穴にちょうどいいから、植え替える」
そう言ってスタスタと歩き始めたと思ったら、ピタリと足を止める。
「…ついでにカボチャも収穫する。煮物にするとうまいから、お前も手伝え」
じいちゃんは、振り向きもせずにそう言った。
その背中はしゃっきりと伸び、やっぱり俺なんかよりもずっと大きく見えた。
「オッケー!花植えるのも手伝うよ!」
庭に暖かい風が吹き、ばあちゃんが笑うみたいに花が揺れた。
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