#ブルー……秋

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#ブルー……秋

絹子さんの朝は早い。 近頃は秋も深まり、朝は少し肌寒く感じる。 でも絹子さんは、凍るように寒い冬の朝でも、蝉の合唱に攻撃される真夏の朝でも、なんの迷いもないという風にむくりと起き上がる。 そしてわずかな衣擦れの音とともに、するりと部屋から出て行くのだ。 きっとまだ寝ている私を起こさないための気遣いなのだろうと思う。 絹子さんには、そういう優しいところがある。 言葉には出さないけれど。 「起きているよ」と言えばいいのだが、私はこの時間が好きなのだ。 瞼のちからを抜いて、絹子さんの一日が始まる音に耳を傾ける。 そして私の一日も、ここから始まる。 部屋を出た後、絹子さんが向かうところは洗面所と決まっている。 私は絹子さんより少し遅れて部屋を出て、ゆっくりと洗面所へ向かう。 そこには、べっ甲の髪留めをつけた絹子さんの後ろ姿がある。 肩甲骨あたりまである髪を一瞬で、すっきりとまとめる技はいつ見ても見事だと思う。 女性は皆、あんな風に髪を自在に扱うのだろうか。 黒よりも白が多くなった絹子さんの髪は、それでもなお豊かで美しい。 私も随分白髪が増えたが、絹子さんのそれとは違い、みすぼらしく見えるようで気になっている。 そんなことを思っている間に、絹子さんは腰を丸め、冷たい水をぱしゃん、と顔にあてる。 これも季節を問わず変わらない、絹子さんの習慣だ。 私なんかは、見ているだけで背筋がブルっとする。 お湯にすればいいのに、と思うが、そういう潔いところも絹子さんの魅力の一つだろう。 ふと、鏡の中で絹子さんの目が私を捉える。 絹子さんは顔の水滴を拭き取りながら振り向き、呆れたように呟いた。 「またそんな、じっと見て」 「おはようございます、絹子さん」 「これはもう、私の日課みたいなものなので」 「…おはよう」 この後絹子さんは一度部屋に戻り、着替えを済ませる。 (さすがにそこは覗かないようにしている) 居間のソファーに腰掛けて待っていると、皺ひとつないスーツに身を包んだ絹子さんがやってきた。 (今日は若草色のスーツか) 上品で爽やかな色味が絹子さんによく似合い、私もお気に入りのスーツだ。 珈琲とパンの焼ける香りが居間に漂い、絹子さんは手早くりんごの皮を剥く。 食パンとりんご、そして珈琲。 一緒に暮らしてから、ずっと変わらない絹子さんの朝食メニューだ。 そして珈琲が苦手な私の為に、絹子さんは水を注いでくれる。 私の朝は、一杯の水とほんの少しの食事で充分なのだ。 言わなくても、絹子さんは自分の朝食と私の朝食を手際よく準備してくれる。 もう何年も一緒に暮らしている、私たちの日常。 でも私は、絹子さんと暮らす前のことを思い出す。 朝食なんてロクに食べない日もあったし、下手をすると、色々な理由で丸一日食事を摂れない日すらあった。 毎朝一杯の水を飲みながら、私はこの日常に感謝する。 絹子さんのいる毎日に。 シンプルな白い珈琲カップを左手に、右手に新聞を持った絹子さんが、チラリとこちらに目をやった。 「…また見てる」 「すいません、まあ、私の趣味みたいなものなので」 「…何が楽しいんだか。悪趣味ね」 絹子さんの言葉はいつも、激しい抑揚がなく、静かでぴしゃりとしている。 それを「冷たい」「きつい」と感じる人もいるようだが、私にはそうは思えない。 絹子さんの言葉には、きちんと温度がある。 例えばさっきのは、少し照れた時の物言いだ。 絹子さんは食器を素早く片付けて口をゆすぎ、壁に掛けられた鏡の前で、口紅を引く。 これで出かける準備は万端だ。 スーツを着て化粧をした絹子さんの姿は、凛としていて、どこか孤高にも見える。 「いってきます」 柔らかさと物悲しさが混じったような優しい声で、絹子さんが言う。 でもそれは、私に向けられた言葉ではない。 絹子さんが話しかけたのは、チェストの上に置かれた四角い枠の中の人物、大木謙一郎氏だ。 四角い枠の中で謙一郎氏は、学生服を着て、キリッとした表情でこちらを見つめている。 それなのに、どことなく微笑んでいるように見えるくらいに、その目や口元には穏やかさが宿っている。 きっと、優しい青年だったのだろう。 チェストの上は埃一つなく、小さなガラス瓶に絶えず野花が飾られている。 謙一郎氏は、私がこの家に来る前からそこに居た。 絹子さんが、可愛らしい野花のような乙女心を捧げた青年。 そしてそれはずっと変わらず、現在も。 「いってきます」 二度目の言葉に、私は今度こそ答える。 「いってらっしゃい、絹子さん。気をつけて」 玄関で見送り、絹子さんがドアを閉めると、私は縁側から庭に出る。 家の前まで見送ると言っても、絹子さんには「大げさね、仕事に行くだけでしょ」と却下されてしまう。 だから私は庭に出て、絹子さんの足音が聴こえなくなるまでそっと見送るのだ。 「あら、あれ新城さんじゃない」 ふと、塀の向こうから声が聴こえた。 この甲高い声は、お向かいの片岡さんちの奥さんだ。 「相変わらずあの歳でハイヒールなんて履いて…すごいわねえ」 話の相手は二軒隣の田辺さんのようだ。 「すごい」という言葉とは裏腹に、その声のトーンに尊敬の念は感じられない。 「新城さんって、お一人で会社立ち上げて今でも現役なんでしょ。そういう人って、やっぱり気がきついっていうか…ねえ」 「そうそう!町内会で揉めたこともあるらしいわよ。会長の意見をキッパリ否定しちゃってさ」 「困るわよねえ、協調性がないって。」 「だからずっと独りなんでしょ」 協調性のあるらしい二人は、ホントよねえ、と声を合わせて笑っている。 絹子さんという人をよく知らない人間に、どう思われたって構わない。 ───心からそう思えたらいいのだが、やはり絹子さんが悪く言われるのは気分が悪い。 私は足音を立てないように家の中に戻り、小さくため息を漏らした。 私は今や、食うために働くこともない悠々自適の毎日だが、絹子さんは仕事を生きがいとしている。 絹子さんが切り盛りする縫製工場は、たった三台のミシンから始まった。 今も決して大規模ではないが、腕の確かな職人達の見事な仕事が知れ渡り、その世界では名の知れた会社になっている。 「貧乏な学生でも、ステージに立つモデルでも、うちで作った服が着たいと思う人がみんな着られるということが大事なの」 「儲けは、職人が食べていける分で充分。同じ思いの職人達が集まっていることが、私の誇りなのよ」 いつだったか、絹子さんが話してくれた。 絹子さんの心は美しい、と私は思う。 でも絹子さんの言葉と振る舞いは誤解を与えやすく、彼女の周りにはトゲが集まりやすい。 絹子さんにとって、世界がもっと優しければいいのに。 私はそう願わずにはいられない。 「──謙一郎さんなら」 私は小さく呟く。 謙一郎さんならきっと、その朗らかさで周囲の誤解を解いて、絹子さんを優しい世界へと迎え入れることができたのかもしれない。 私はチェストの上に居る謙一郎氏に目をやり、もう何十年も前の物語を頭の中で反芻する。 ───────────────────── 授業が終わり、帰り支度を整えて歩き出すと、ちょうど級友達が道を塞いでいた。 「ねえねえ、今日うちに遊びに来ない?皆でお話ししましょうよ」 「そうしましょう!じゃあ私、頂いたお饅頭を持って行くわね」 「うわあ、楽しみ!」 楽しそうに声を弾ませていたところに、私の姿を見つけてふと空気が変わるのを感じた。 「…あっ、絹子さん。良かったら、絹子さんもご一緒にどう?」 不自然に口角の上がった笑顔を見せる級友に、私はうんざりする。 「ありがとう、でも今日は用事があるので」 「そっか、じゃあまた今度」 彼女達は今度こそ本当の笑顔を見せて、足早にその場を去る私を見送ってくれた。 「絹子さん!」 この声は。 振り向くと、大きく手を挙げた一人の男性が、私に向かって歩いてくる。 本当の笑顔を纏いながら。 「…謙一郎さん」 「絹子さん、後で家の方に寄るよ。叔母が沢山布切れを送ってくれてね。母が妹にリボンやらを作ったから、絹子さんと智子ちゃんにもおすそ分け」 「ありがとうございます。妹がきっと喜びます」 「じゃあまた後で」 柔らかな笑顔のまま去っていく謙一郎さんを、私は目線だけで見送る。 謙一郎さんは私より二つ年上で、幼い頃からご近所同士だ。 だからといって交流が盛んなわけではないが、私に本当の笑顔を向ける数少ない人物ではある。 初めて、違和感に気づいたのは7歳の時。 この辺りでは、地主の父に借金をしている人も少なくはないようで、そういう家の子供は私に対して不自然な笑顔を見せる。 「絹ちゃんには逆らっちゃダメだってお父さんに言われたし…絹ちゃんやっていいよ」 おままごとの前、お母さん役を誰がやるかでじゃんけんになった時、友達の一人がそう言ったのは9歳の時だった。 それ以来、私はあまり友達と遊ばなくなった。 一人で過ごすことが当たり前になった15歳の頃、私にはいつも通っているお気に入りの場所があった。 公園を抜けてさらに奥に進むと広がる、小さな丘。 広くはないが、緑に囲まれていて滅多に人が来ず、風が気持ちいい場所だった。 その日もそこへ行くと、大きな笑い声が聞こえて、私は咄嗟に足を止めた。 「やっぱり俺は、京子さんだなあ。おしとやかだし」 「そうか?呉服屋の桜子さんの方が器量がいいだろう」 どうやら男子学生達が、下世話な話をしているようだ。 (今日は諦めよう…) 「でも出世を狙うなら、地主の娘だよな」 そっとその場に背を向けた瞬間、思いがけない言葉が聞こえて足が固まる。 「新城絹子だろう?器量は悪くないが、愛想も何もないじゃないか」 「それに知ってるか?子供の頃引っ越していった孝介の話。地主の娘と仲良くしてただろ?」 「ああ、聞いたことあるぞ。あの子と喧嘩しただけで、父親の逆鱗に触れて住んでいられなくなったらしいな」 (えっ…?) 孝介君とは、家が近くてよく遊んでいた。 たしかに喧嘩したこともあったが、そんな事は子供同士のじゃれ合いのようなものだった。 引っ越しの理由は、孝介君のお父さんが大阪の親戚に仕事を貰うことになったからだし、引っ越しの際も、「またいつか遊ぼう」と笑顔で別れたのだ。 それに、私の父はそんな事をするような人物ではない。 父があちこちにお金を貸すのは親切心からだ。 でも力のある人間の親切は、時に相手を卑屈にさせてしまう。 貸した相手に返済を迫った事すらないのに、勝手に萎縮し、敵視する。 報われない。 それでも父は私たち姉妹に、いつも言ってきかせる。 「困っている人の助けになることが、大切なんだよ」と。 (まさか、そんな風に噂されていたなんて…) ちょっとしたことに尾ひれのついたくだらない悪口には慣れっこだったが、これは初耳だった。 弁解するべきか。 …いや、関わらないのが一番だ。 どうせ何か言おうものなら、また違った噂が増えるだけなのだから。 「大木はどうなんだ?本ばかり読んでいないで、話に混ざれよ」 ────ドクン。 心臓が、一瞬止まった後に大きく脈打った。 (謙一郎さんも、そこにいる) いつもにこやかな謙一郎さんも、私や、私の父を悪く思っているのだろうか。 そんなこと、どうでもいいのだけれど。 人の裏切りには、慣れているのだから。 そう言い聞かせながらも、胸の中にじわり、と、水に落ちた墨汁のようにもやが広がる。 「え?ごめん、本に夢中であまり話を聞いてなかったな。誰が可愛いか、だっけ?」 謙一郎さんは悪びれずに、あっけらかんと答える。 木々の葉で隠れて、私からその表情は見えない。 「それもあるけど、ああ、そういえばお前は、地主の娘とたまに話しているなあ」 「あの親子に関わると危ないって噂だぞ。お前も気をつけないと」 「危ない…?」 あははは! ───謙一郎さんのおかしそうな笑い声が響く。 私は息を呑み、ただ事の顛末を見守る。 「そういえばおかしな噂はいくつか耳にしたことがあるけどね、全部嘘だよ」 「嘘だって?いや、現に被害者がいるんだぞ。あの家に借金をしているところも多いし…」 「そりゃ、新城さんはすごく心の大きな人だからね。困っている人を放っておけないんだよ。うちも、家族ぐるみで何かとお世話になっているよ」 「で、でも娘の方はどうだ?全然愛想もないし、いつも一人でツンとしているじゃないか」 「絹子さんのこと?絹子さんは妹思いの優しい子だよ。不器用なところはあるけど、感性が豊かだから話していると楽しいよ」 「それに、すごく綺麗だしね」 「…うっ、お前、よく恥ずかしげもなくそんな事が言えるな」 「さっき君達もどの子が可愛いとか話していたじゃないか」 「いやまあ、そうなんだが…。まあ確かに、地主の娘はわりと美人だよなあ」 「確かに…」 さっきまで悪意に満ちていた空気が、いつの間にか、さあっと流れてしまう。 私は、しばらくその場から動けなかった。 謙一郎さんは少し変わっている。 男達が皆、かけっこや戦闘機に夢中だった子供の頃から、本ばかり読んでいた。 それも、女の子が読むような物語や詩を好んでいるようだった。 それでいて、男達からつまはじきにされるかというとそうでもなく、謙一郎さんの周りにはいつも自然と人が集まる。 頭が良く親切で、そして何より、謙一郎さんの纏う柔らかな空気に皆惹かれるようだった。 私とは正反対。 私が皆に敬遠される理由は、地主の娘だからというだけではないと自分でもわかっている。 愛想笑いもせず、人の言葉も素直に受け取れない、この可愛げのなさが大きな原因。 なのに──。 謙一郎さんは、私と話していて楽しい、と言った。 心からの笑顔でそう言ってくれたことは、見えなくてもわかる。 いつも、あの人の笑顔は本物だったから。 頰を温かいものが伝い、私は慌てて両手で拭う。 認めたくなかった。 平気だと言い聞かせても、本当は男子学生達の心無い言葉やくだらない噂に、傷ついていたこと。 謙一郎さんの言葉に、泣くほど救われたこと。 'それに、すごく綺麗だしね' 突然、謙一郎さんの言葉の最後を思い出し、ブワッと胸が泡立つ。 (きれいって、言った……?) 今度は恥ずかしさでいっぱいになる。 いろんな感情が押し寄せて、いてもたってもいられない気持ちだった。 とにかく、絶対にここで見つかるわけにはいかない。 私はようやくそっと足を動かし、その場を去った。 あの日のことを思い出すと、今でも胸がザワザワと騒ぐ。 謙一郎さんは、やっぱりだいぶ変わっている。 「ごめんください!」 家の扉を叩く音にハッとして、私は玄関へと向かう。 「やあ、絹子さん。さっき言ってたリボンやらを持ってきたよ」 謙一郎さんはそう言って、リボンや布切れが入った風呂敷を持ち上げて見せた。 「ありがとございます。ごめんなさい、今ちょうど母が中野さんのところに出ていて…」 そう言いかけたところで、後ろから慌ただしい足音が近づいてきた。 「それさっきお姉ちゃんが言ってたリボン!?見せて見せて!」 年の離れた妹は、嬉しそうに風呂敷の結び目に手をかけた。 「こら!智子ちゃん、失礼よ。先にご挨拶とお礼は?」 「謙一お兄ちゃん、こんにちは!リボンありがとう!あ、これ可愛い!この赤いの、智子のね!」 呆れ顔の私をよそに、謙一郎さんはハハハ!と気持ちよく笑っている。 「…ごめんなさい。おばさまにもよろしくお伝えください。妹がとても喜んでいましたと」 「うん、伝えておくよ。あ、でもちょっと待って」 謙一郎さんは智子が漁っている風呂敷に手を伸ばし、一本のリボンをするりと抜き取った。 紺色に近い、綺麗な青のリボン。 「これは、絹子さんに似合うと思うな。凛とした清潔な感じがピッタリだ」 そう言って、私のおさげの結び目あたりにリボンをそっと合わせた。 「うん、やっぱり思った通り」 目を細めて微笑む謙一郎さんを見て、私は一瞬言葉が出てこなかった。 ありがとう、と言えばいい。のに。 「わ、私は」 「リボンなんて、つけないから」 なぜこんな言葉しか出てこないのだろう。 綺麗なリボンだと思ったのに。 似合うと言ってもらえたのに。 ほとんど泣きそうな気持ちでも、その気持ちが顔に出ないのが可愛げのないところだと我ながら思う。 それでも謙一郎さんの笑顔は、曇らない。 「確かに絹子さん、いつもリボンはつけてないね」 「でも、きっとよく似合うよ」 じゃあ、おばさんによろしく、と言って、謙一郎さんはうちを後にした。 智子は嬉しそうに風呂敷包みを抱え、部屋へと走っていく。 ふと、玄関にある小さな姿見に目をやると、思いがけず頼りない顔をした女性が映っていた。 「変な顔……」 私は、謙一郎さんがそうしたように、おさげの結び目にリボンを合わせてみた。 黒髪の上で目立ちすぎない、でもとても綺麗な群青のリボン。 「ただいま〜」 玄関の扉がガラガラと開き、私は慌ててリボンをズボンのポケットに押し込める。 「おかえりなさい、お母さん」 謙一郎さんのおばさまから頂き物をしたことを伝えると、母はちょうどよかった、と言い、台所から包みを持ち出し、私に手渡した。 「お礼にこれを届けてちょうだい。昼間にお団子を作ったのよ」 「…わかった。行ってきます」 さっきの後で、また謙一郎さんと顔を合わせるのはなんだか気が引けた。 リボンを、つけていこうか。 一瞬だけそんな考えが頭によぎったが、すぐに消しとばした。 きっと謙一郎さんは、笑って喜んでくれるだろうけれど。 外に出ると、もう夕陽が辺りを包んでいた。 橙色の道を歩き、床屋と神社を越えれば、すぐに謙一郎さんの家だ。 私はそれまでに気持ちを落ちつけようと、小さく深呼吸する。 (神社にでも寄っていこうか…) そう思って神社の境内に目をやると、そこに佇む人影があった。 (…え?謙一郎さん…?) 謙一郎さんらしき人影は、本殿に向かってまっすぐに立っている。 服装や背格好は、確かに先ほどの謙一郎さんと同じだ。 でも微動だにしないその後ろ姿は、なんだかいつもの謙一郎さんとは違って見える。 少し、近づいてみた。 砂利の擦れる音を聞いてか、その人はスッと振り向いた。 その人はやはり謙一郎さんだったが、その顔にいつもの笑顔はない。 ただ澄んだ瞳が夕陽に照らされ、キラリと光っていた。 「けん、いちろうさん…?」 思わず名前を呼ぶと、謙一郎さんはハッとしたような顔をして、それからいつもの笑顔に戻った。 「あれ、絹子さん!どうしたの?」 正確には、いつもよりも、物悲しいような笑顔に。 嘘の笑顔ではないけれど。 「母がこれを…お団子なんですけど、おばさまに、お礼にと」 包みを手渡すと謙一郎さんは、嬉しいなあ、これ家族みんな好きなんだ、とまた笑った。 「…何か、ありましたか」 「え?」 「いえ、神社にいらしたし、どことなく、いつもと違う気がして」 そう言うと、謙一郎さんは笑顔を保ちながらも、ほんの少し目を伏せた。 「…お祈りをしていたんだ」 「これが来てね」 謙一郎さんがポケットから出してみせた紙切れがなんなのか、私には一瞬分からなかった。 夕陽に照らされて、よく見えなかったのだ。 でもすぐに理解した。 赤紙───── 何も、言葉が出なかった。 おめでとうございます? お国のために? 言うべき言葉はいくつか知っている。 でも、言いたい言葉が何も出てこない。 喉が渇いて、手が震えるのを感じた。 私は今、どんな顔をしているのだろう。 「…絹子さんだけに言うとね、実は、生きて帰ってこれますようにって、お祈りしてたんだ」 謙一郎さんは、ふふ、と笑う。 「非国民だよね。絹子さんに軽蔑されても仕方ない」 私は、何も言葉を返せない。 でもこんなことを誰かに聞かれでもしたら、ただでは済まない。 私は周りに目をやって、他に誰もいないかを改めて確認した。 「僕はね、戦争よりも、本の中にある文字や、言葉の力を信じているんだ」 「人は動物と違って、複雑な言葉を持っている。だから言葉で話し合えば、理解し合えるんだよ」 今この時代にそんな事を言う人を、私は見たことがなかった。 たとえ心で思っていたとしても、口には出せない。 でも謙一郎さんが言うと、とても自然なことのように胸にすとんと落ちる。 「…生きて帰ってきたら、僕は言葉を紡ぐ仕事がしたいんだ。生み出した言葉は永久に残るから、いつか誰かの助けになるかもしれない」 「僕自身も、言葉にはいろんな場面で助けられたからね。今度は僕が、誰かにそれを返したい。そういう世の中なら、きっと戦争は必要ないんだ」 私も、謙一郎さんの言葉に救われた。 こんな私のことを、優しい子だと言ってくれた。 だから私は─── 「…私、私も、言葉には力があると思います」 「嬉しいなあ、やっぱり、絹子さんならわかってくれると思っていたよ。絹子さんの言葉は、とても温かいから」 謙一郎さんは心底嬉しそうな顔で、あり得ないことを言った。 (あたたかい?私の言葉が?) 「そんなことは…ありません。私はいつも言葉が下手で、他人を不快にさせてしまうことも多いことはわかっています」 思ったことの半分も、うまく言葉にできない。 それどころか、心と反対の言葉が溢れることもある。 特に、謙一郎さんに対しては───。 謙一郎さんはふむ、と少し考えたあと、ゆっくりと話し始めた。 「言葉はたしかに、文字にすると、文面通りの意味しか伝わらないけどね」 「でも人が話す言葉は、言葉の意味だけじゃなくて、その人の心も映し出ると思うんだ」 「絹子さんの話す言葉には、いつも優しさや思いやりを感じるよ。少なくとも、僕にとっては」 謙一郎さん─── 嘘のないその笑顔、真っ直ぐな言葉。 謙一郎さんの言葉こそ、思いやりに溢れている。 いつだって、私の胸をいっぱいにする。 何も、言えなくなるほどに。 戦争になんて、行かないで。 生きて帰ってきて。 私は、謙一郎さんのことが─── 「絹子さん。僕は、絹子さんが好きなんだ」 「もし生きて帰ってきたら、僕のお嫁さんになってくれないか」 優しく微笑みを浮かべながら、謙一郎さんはさらりとそう言った。 なんのためらいもなく、夢のような言葉を。 私はというと、ぐるぐると身体中を思いが駆け巡るばかりで、何一つ言葉にならない。 いつもこうだ。 私はいつも。 (でも───) 私は謙一郎さんが手に握ったままの、赤紙に目を落とした。 (謙一郎さんは、行ってしまう) 今、気持ちを伝えないと、行ってしまうのだ。 手がブルブルと震え、言葉の代わりに涙が溢れ出る。 ずっと好きだった。 ずっとずっと、慕っていた。 そしてこれからも。 私はハッと気がついて、ポケットの中からあのリボンを取り出した。 謙一郎さんが、私に似合うと言ってくれた群青のリボン。 それをするりと、でもしっかりときつく、おさげに結びつけた。 「……待っています」 私の声は、びっくりするほどか細く震えていた。 「お帰りを、待っています…!」 もう一度、言葉にすると、謙一郎さんは花が開いたように笑った。 男性にそんな表現をするのはおかしいかもしれないが、謙一郎さんは本当にふわりと笑うのだ。 春の柔らかな花のように。 「ありがとう…!」 謙一郎さんは、大きな手で私の頰に伝う涙を拭った。 そしてこう言った。 「忘れないで、絹子さん。君は、どんな時も独りじゃないから」 とても温かな言葉だったが、その時私は、謙一郎さんが透けて消えてしまうような気がした。 もう、現実世界でそばにはいられないのだと、そう悟っているような。 そしてそれは、その通りとなった。 ───────────────────── 絹子さんは基本的に酒を飲まないが、たまに縁側で晩酌をする日がある。 日本酒をチビチビと飲みながら、月を見て、ぽつり、ぽつりと話し始めるのだ。 話すことは決まって、謙一郎氏との思い出話だ。 普段、割と無口な絹子さんが楽しそうに話す姿は、まるで少女のようで愛おしい。 何度も繰り返し聞いたせいか、私は謙一郎氏と古い知り合いのような気持ちだった。 変に張り合おうという気持ちなど、もはや生まれない。 「よいしょっと…」 最近、身体が重い。 ちょっと腰かけたり、立ち上がったりするだけでも、なかなかに気合いがいるようになった。 いまいち食欲も出ない。 それは絹子さんも同じなようで、朝食の食パンが、一枚から半分に減っていることを私は見逃さなかった。 心配ではあるが、老いは誰にも避けられない。 謙一郎氏は、いつだって若いまま、青年のままで絹子さんの中にいる。 でも、私は絹子さんと一緒に、歳を重ねることができた。 (今夜は、晩酌をしそうな気がするな) 高い空にかかるうろこ雲を見ながら、私はなんとなくそう思った。 「少し冷えるわね」 絹子さんはそう言って、徳利から熱燗をお猪口へと注ぐ。 そしてお猪口に少し口をつけるが、それは飲んでいるのかわからない程度だった。 絹子さんは寝巻きの浴衣に、薄い黄色のカーディガンを羽織り、縁側の柱にもたれかかっている。 夜の縁側は、冷たい空気に包まれていた。 「そんな薄いカーデガンで大丈夫かい?」 「あなたは、寒くない?」 絹子さんはふっと笑って、私の肩をするりと撫でた。 「私は平気だけどね」 絹子さんの笑い方も、花が開くみたいだと私は思う。 長年慕っていると、似てくるものなのだろうか。 まるで夫婦のように。 「信頼できる職人の一人に、会社のすべてを任せることにしたのよ」 絹子さんは、どこを見るともなく、庭の方に目をやりながら話し始めた。 「あの人なら安心して任せられるわ。きっと、これからも必要とする人に素敵な服を届けてくれる」 絹子さんの声は、庭で鳴くコオロギの声と同じぐらいか細く、そして美しかった。 「…長い間、お疲れ様でした」 私がそう言うと、絹子さんはまたお猪口に口をつけた。 だけどやっぱり、お猪口の中を満たす酒が減っているようには見えない。 「…私は謙一郎さんのように、言葉で人を幸せにすることはできないから」 「得意だった縫製を仕事にして、少しでも誰かの役に立てればと思ったの」 絹子さんは私に話しているようで、そうでない気もした。 コオロギが、コロコロと鳴いて答える。 「会社を設立して、少しずつ職人も集まって…ここまでやってきたけれど、過ぎてみたら一瞬のようね。謙一郎さんと神社で話したのが、昨日のことみたい」 「…そんなもんですよ。私も色々ありましたけどね。こうして座っていると、ずっとここに居たような気もします」 ふふ、と笑って絹子さんが私に目をやる。 明るい月明かりが絹子さんの右半分を照らし、まるでそのまま透き通ってしまいそうだ。 「…会ったら、褒めてくれるかしら。よく頑張ったね、って」 少女のような横顔で、絹子さんは月を見上げる。 「若い頃は、こんな私にも一緒になろうって言ってくれた人がいたのよ。でも、私はやっぱり冷たいのかもしれないわね」 「こんなに長く生きてきたのに、好きになった男の人は結局、謙一郎さんだけだった」 絹子さん。 それは絹子さんの愛が、とても真っ直ぐで深いからです。 冷たいだなんてとんでもない。 絹子さんは他の誰よりも、温かいというのに。 私は絹子さんの横顔を見つめた。 絹子さんの目には今、謙一郎氏が見えているのだろうか。 月の光を宿した絹子さんの瞳は、ここではない、どこか違う場所を見ているようだった。 「…結局、好きという言葉すら返すことができなかったのにねぇ。ふふ」 切なげに笑う絹子さんを見ていると、胸のあたりがギュウ、と締め付けられる。 絹子さんは、孤独と共に生きてきた。 少数の人間は絹子さんの誠実さを知っていたが、その他多くの人間は絹子さんを煙たがった。 それでも泣き言を言わず、信念は曲げず、ただ真っ直ぐに、毎日を丁寧に生きてきたのが絹子さんだ。 でも絹子さんの心が鋼でできているわけでは、決してない。 寂しさに潰れそうな日も、恐怖に震える夜も数え切れないくらい乗り越えてきたのだ。 本当の絹子さんを理解しているのは、謙一郎氏と、そして私だけだと自負している。 でも謙一郎氏は、生きてそばにいることが叶わなかった。 私は、こうして隣にいる。 一緒に歳を重ねているのに。 せめて謙一郎氏の代わりに、絹子さんの力になれたなら。 それができない悔しさで、私は胸がいっぱいになる。 この毛だらけの前足がもう少し長く、力強かったなら、絹子さんを抱きしめて癒してあげられるのに。 この口がもう少し上手に言葉を話せたなら、周りの棘から絹子さんを守ってあげられるのに。 私はなんて無力なんだろう。 隣にいることしか、できないなんて。 きゅうん。 思いがけず情けない声が出て、私は口をつぐむ。 「あら、どうしたの?ブルー」 絹子さんが優しく私の名を呼び、背中に手を添えてくれる。 私はこうして、絹子さんに与えられてばかりだ。 「…あなたはいつも、温かいわね」 絹子さんが、私の背を撫でながら微笑む。 その声は、コオロギの声に溶けてよく聞こえないほどだった。 ───そうか。 もう、その時が来たのか。 5年前、怪我をして動けなくなっていた私を、絹子さんはなんの迷いもなく抱え上げた。 私は体が大きい方だから、絹子さんが抱えて歩くのは容易ではない。 綺麗な洋服が泥だらけになっても、周りから怪訝な目で見られても、絹子さんは私を諦めなかった。 病院へ連れて行って治療を受けさせてくれた上に、この、温かな家へ迎え入れてくれた。 そして迷子になっても見つかるように、と、首輪に青のリボンを結んでくれた。 謙一郎氏に貰った、大切なあのリボンを。 なんて幸せで、満ち足りた5年間だっただろう。 どんな毎日を送っていても、それはいつか終わりを迎える。 それは当然のことで、なにも悲しいことではない。 でも、最後の5年間を愛する人と過ごせたということは、私にとってどれ程大きな幸せだったことか。 なんの悔いも迷いもなく、私は最期の時を受け入れることができる。 でも、絹子さんは違う。 絹子さんは、愛する人と一緒に生きることが叶わなかった。 なんて、痛々しいことだろう。 もし神様なんてものがいるのならば、どうか、どうか絹子さんが天に昇る時、謙一郎氏を迎えに寄越してください。 今度こそ、二人を家族にしてあげて下さい。 何十年も、孤独に耐えてきたのだから。 「…ありがとう、ブルー」 背を撫でる絹子さんの手が、私の頰に添えられた。 「あなたがいてくれて、本当に幸せだった」 「え…?」 それは、私の方だ。 私は、絹子さんになにも返すことができていないというのに。 「あなたがうちに来てくれて、私の人生はとても豊かになったわ」 「一緒に眠り、食べ、笑ったり…あなたは私の大切な家族になってくれた」 思いがけない言葉に、息がつまる。 家族─── 何もできない私を、絹子さんもそう思っていてくれたなんて。 「ブルー。一緒に生きてくれて、ありがとう」 「…もし生まれ変わるなら、その時はまた、あなたと家族になりたいわ」 「……!」 絹子さんはそう言って微笑み、ゆっくりと、瞼を降ろした。 私の頰に添えられた絹子さんの手が、するりと滑り落ち、首輪に巻かれたボロボロのリボンを撫で、板の間に置かれる。 「…絹子さん」 「私こそ、幸せでした、とても」 静かな、気持ちだった。 神様、やっぱり願いを追加させて下さい。 絹子さんと謙一郎氏が家族になった暁には、できれば、私もそこに居られますように。 図々しい自分の願いが、少し可笑しくて笑いが溢れる。 でも、他でもない絹子さんが、そう願ってくれたのだ。 また、私を家族にと。 庭にびゅう、と風が吹き、桜の木からいくつかの葉が離れた。 そのうちの一枚がひらりとこちらに吹き込み、絹子さんの髪にかかる。 私は瞼が重くなっていくのに逆らわず、舞い落ちる葉を目で追った。 葉は絹子さんの白く美しい髪の上を滑り、頰、肩…、胸元を過ぎ、柔らかく開かれた手の中に落ちた。 いつも私を優しく撫でてくれた、愛する人の手。 私は、そのままそっと目を閉じた。 コオロギの声だけが、いつまでも響いていた。
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