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だから、彼をこんな所で立ち止まらせてはいけない。
涼香は逞しい肩ををぐっと押した。
「働くですって?絵を描くしか能の無いあなたが?
冗談はやめて。遊びよ。退屈な主婦の火遊び。
まさか、本気にしたの?」
「っ……」
小さく息を飲む声が胸に刺さる。
唇を噛みしめて、後悔と彼の腕に飛び込みたい衝動を堪える。
願わくば、この痛みが彼の作品に大きな栄養を与えますように。
悲鳴にも似た祈りを胸の中で捧げ、優真に背を向ける。
「貴方が僕を捨てたことを後悔するような素晴らしい絵を、
必ず描いてやる」
唸るような声が、背中に届いた。
「そう、期待してるわ」
涼香は振り返りたいのを必死で我慢して、冷たく言い放った。
「さようなら、ありがとうございました」
律儀な言葉と共に、足音が遠ざかっていく。
彼はもう、二度とこの町には戻ってこないだろう。
涼香は誰もいない夕暮れの橋に崩れ落ちた。
口元を押え、声にならない嗚咽を漏らす。
燃えるような残照の中、
ヒグラシが哀しげに鳴くのが聞こえた。
頬を撫でた冷たい風に、秋の訪れを感じた。
願わくば、彼の夢が叶いますように。
願わくば、この町の絵が彼の大きな第一歩となりますように。
通り過ぎていく風の中、まだ見ぬ名作に思いを馳せ
ただ、それだけを祈り続けた。
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