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第72話 ドッペルゲンガー
自分に瓜二つの人を見ると死ぬ。そっくりさんではない。霊的な分身のことだ。海外ではそういう霊をドッペルゲンガーと言う。
文緒は近ごろ、その現象に悩まされていた。
最初に気づいたのは、今年の春だ。一人暮らしのワンルームマンションに帰ると、ドアをあけたとたん、窓ぎわに立っている人影が見えた。うしろ姿だ。
知っている人のような気がした。背格好やふんいきに、なんとなく見おぼえがある。
何よりも、鍵のかかった部屋のなかに人が入りこんでいる事実に、もっとあわてふためくべきだったかもしれない。
しかし、文緒はその人物の風体に感じるものがあった。生きた人ではないのではないか、という感覚だ。
実家は昔、神社の神主だった。そのせいか、文緒自身も幼少期から奇妙なものをよく見た。
見つめているうちに、人影は消えた。いつのまにか、ふと気づくといなくなっていた。どっと冷や汗が出てきた。
次に見たのは、ひさしぶりに学生のころの友達に会ったときだ。待ちあわせの場所を決め、時間に遅れないようにそこへ行くと、友人は誰かと歩き去ろうとしていた。
「あっ、待ってよ。なおちゃん」
名を呼ぶと友達はふりかえった。そのとき、友達のとなりにいた人物もかすかに、こっちを見た。
よこ顔を見て、文緒はゾッとした。どう見ても自分だったからだ。鏡に映る虚像が、おかしな角度でそこに現れているかのようだった。
そんなことが何度も続いた。
一度は夜中に目がさめると、すぐ目の前に、それが浮かんでいた。カッと目をみひらき、口をモゾモゾと動かしていた。何か話しかけているようだが、その声は聞こえなかった。
ネットで調べると、ドッペルゲンガーという現象は、古くから文献にも残されているらしい。日本では芥川龍之介がそれを見たとか。
街なかのどこでアレに会うかと思うと、外に出ていくのが怖い。だからと言って、家のなかも安心できない。トイレや風呂場のドアをあけたとたんに鉢合わせしてしまうからだ。
あまりにもひんぱんにそれが起こるので、文緒は精神的にまいってしまった。
すると、先日、いっしょに怪異に遭遇した友人の直子が、心配して霊媒師を紹介してくれた。文緒はふだん、霊能者など頼らないのだが、このときはさすがに疲弊していた。見てもらってなんとかなるものなら助けてほしかった。
雑居ビルのなかのいかにもうさんくさい占いの館の一角に、その霊媒師はいた。文緒を見て深々とため息をつく。
「あんたはとんでもない業を背負ってるね」
ラメ入りのピカピカした衣装を着た女が、いきなり告げる。
「わかりますか?」
「わかるよ。自分にそっくりな顔の霊に悩まされてるんだろ?」
「なんで、そう思うんです?」
「今もとなりにいるからね」
ドッペルゲンガーが現れるのは死期が近いからだ。自分はもうすぐ死ぬのだろうか。いっきに不安になる。
同時に、ドッペルゲンガーのことを言いあてた霊媒師は信用に足ると考える。この女にすがれば助かるかもしれない……。
「あの、どうしたらいいんですか? わたし……」
「まあまあ。待ちなよ。事情をくわしく話してごらん。わたしだって、すべてが見えてるわけじゃないんだ」
文緒はここにいたるまでの経緯を話した。黙って聞いていた女は、やがて口をひらいた。
「いったい、どういうことなのかわからないけど、わたしには何人ものあんたが見える。男だったり女だったり、まだ子どもだったり、老人のあんたもいるね。これまでに生きてきた前世のあんたかもしれない。または、こことよく似た世界がたくさんあって、そっちの世界に生まれたあんたか」
霊媒師は突拍子もないことを言いだす。だが、その口調は真に迫っていた。女は嘘をついていない。そう確信した。
「その世界のなかで、あんたはいつも霊におどされたり、不思議なことにあったり、ときにはそのせいで死亡した。いつも怪奇にまきこまれる人生を送っていた」
「そんな……」
「今、あんたに憑いてるのも、そのなかの一人だ。不幸にして亡くなり、でも自分の死んだ自覚がない。それで瓜二つのあんたに知ってもらいたいんだ。自分はここにいるんだと」
「そうなんですね……」
「その女があちこちの世界で、自分の分身たちに声をかけることで、多くの世界のあんたが霊の影響を受けた。それによって、もっと悪い霊を呼びよせ、変なものが見えるようになった。つまり、その女さえ成仏すれば、あんたは助かる。霊障におびやかされることは、もうなくなるよ」
「ほんとですか?」
「ああ」
「どうしたらいいんですか?」
「わたしが説得してあげるよ。自身が死んだことを納得させ、どの世界のあんたにも干渉させなくする」
つかのま、霊媒師はゴニョゴニョと呪文のようなことをつぶやいた。それが終わったとたん、文緒は何かの気配をとなりに感じた。見ると、もう一人の文緒がそこにいた。そして少し悲しげに微笑むと、消えていった。
「消えた! 今、もう一人のわたしが消えました!」
「気づいてもらえて満足したんだね」
「じゃあ、わたし、もう自由なんですね?」
「あの霊が出ることは二度とないだろう」
「ありがとうございます!」
文緒はお金を払って霊媒師と別れた。少し高額ではあったが、ドッペルゲンガーに悩まされないのなら安いものだ。
ようやく安堵することができた。これで今日からゆっくり寝られる。
いつ自分が死ぬのか、病気じゃないか、それとも、とつぜん地震で建物が崩れるとか? 火事や通り魔だって怖い。
そう思って、このところずっと、あまり寝られなかったのだ。
安心したので眠くなった。部屋に帰って休もうと、文緒はビルの階段をかけおりた。
外に出たとたんだ。
叫び声とクラクションが耳をつらぬき、目の前に何かが迫った。車が歩道に乗りあげ、つっこんできたと思ったときには、文緒は高くはねあげられ、意識が遠くなっていた。
*
目がさめると、文緒は一人で暗い夜道に立っていた。
通りのむこうから男が歩いてきた。
文緒は急いで男の前に立った。
「すみません。わたし、道に迷ったみたいで」
男は文緒を無視した。疲れた顔で去っていく。
またしばらくすると、今度は少女に出会った。
「ねえ、道を教えて。わたし、家に帰りたくて」
女の子は何かを探すようにキョロキョロしたが、首をふりつつ歩いていった。
いったい、なんだと言うのだろうか?
なぜ、みんな、あんなにそっけないのか。
文緒は見かける人たちに手当たりしだい声をかけた。だが、誰も相手にしてくれない。
ようやく、反応があった。その人も驚いていたが、文緒も仰天した。まるで文緒の双子の姉妹かと思うほどよく似ているのだ。
「お願い。帰り道を教えて!」
だが、女は悲鳴をあげて走りさった。
「もう、なんなの? いくらそっくりだからって、逃げることないのに」
来る日も来る日も、文緒は通りすがりの人に話しかけた。でも、みんなの目には文緒が見えていないかのようだ。気づいてくれるのは、文緒に酷似した人たちだけ。
それは文緒。
男の文緒。女の文緒。子どもの文緒。老人の文緒。きまじめな文緒。卑怯な文緒。美人の文緒。いいかげんな文緒。幸せな文緒。不幸な文緒。サラリーマンの文緒。女医の文緒。園児の文緒。おじさんの文緒。優しい文緒。罪深い文緒。
平行するたくさんの世界に存在する、文緒。
たくさん、たくさんの文緒。
文緒は今日も声をかける。
お願い。気づいて。
わたしに気づいて。
待って。行かないで。
ここにいるのよ。ここに。
誰か、わたしの声を聞いて。わたしを見つけて。
ああ、行ってしまった。でも、大丈夫。今はダメだったけど、きっと、今度は救われる。
きっと、次こそ……。
だから、今日も探している。
自分によく似た人を。
どこかの世界の文緒を——
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