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事が動いたのは数日後のこと。
私は夕食を買うためにコンビニに向かうところだった。外に出て玄関のカギをかけようとしたところ、アパートの一階から私の住む二階の方へ上がってくる足音が聞こえてくる。
そういえば、このアパートに引っ越してから二階の住人を見かけたことがない。引っ越しの挨拶で回ろうと思ったのだが、その日が連休だったからか二階建てのこのアパートで二階の住人は全員留守にしていた。
もしここの住民なら挨拶しておこうか。そう思った私は階段へ向かった。
すると。
階段から上がってきたのは女性。後ろの下の方で髪をひとつにまとめ、地味な雰囲気だった。顔はやつれ、疲れているように見える。そして何より目に入ったのは彼女の頬と腕にある青あざだった。
私はそれを見なかったことにして声をかける。
「あの……」
「……っ! はい」
妙な間があった。
「この前二〇二号室に引っ越してきた相田です。よろしくお願いします」
私の言葉を聞いた女性は一瞬目を見開き、急に動きがおかしくなる。
まず鞄を持つ手とは反対の手に持ってた大きな紙袋の中を見えないようにした。目線はあちらこちらとせわしなく動いている。そして心なしか、身体をこわばらせているように見えた。
「あ……はい、よろしくお願いします」
そうか細い声で答えた彼女が家のカギを取り出したため、私は軽く一礼して階段を降り始める。
その時。すぐ後ろでドアが開いた。
女性は振り返った私に気づいていないようだったが、私は唾を飲み込む。
そこは二〇一号室……問題の赤子の声が聞こえる部屋。もしかしたらあの女性は誘拐事件の……犯人?
私は早く家に帰りこの数分のことを記録したい気持ちが生まれ、かといってここで踵を返すのも躊躇い、小走りでコンビニに向かった。
携帯電話が高価だったこの時代、もちろん私がそんな大層なものを持ち歩けるはずもなく。近くのコンビニに行くくらいだからとメモ帳を持ち歩くこともしなかった私はその場では何もできなかったのだ。
*
急いで家に帰った私は今朝届いた新聞の中に挟まれたチラシの束を取り出す。
そしてそこからさらに裏面が白紙のチラシを取り出してメモを書き始めた。
もし万が一私が口封じのために連れ去られたりしたとして、証拠隠滅の対象となりそうなメモ帳には何も残さないでおこう。まさか雑多に置かれたチラシの裏に何か書かれているとは思うまい。
もしかしたらこれが後々警察の役に立つかもしれない。自分が事件に巻き込まれるかもしれないことに恐れはあったが心は自然と躍りだし、なんだか今までの鬱屈としていた自分が嘘のように輝いていた。
調査の一環と思えば、この嫌いな赤子の泣き声も重要な『点』へとなり替わる。
私はいつしか探偵ごっこをする子どものようになっていた。
*
メモをし終えた私は想像力を働かせる。
私の憶測では、つまりこうだ。何も難しい話ではない。
隣人の夫妻は長年子どもができずにいた。そのうち旦那は荒れ、「子どもができないのはお前のせいだ」と妻に暴力をふるう。その暴力に耐えられなかった妻はついに悪事を働いてしまったのだ。
それこそが、今この町で起こっている「連続嬰児誘拐事件」。
私がこの間その妻に会った時に見たあの青あざは旦那からの暴力の痕。あの大きな紙袋に入れられていたのは恐らく今日さらってきた赤子。そして極めつけに、妻のあの挙動不審な動き。あれは事件の発覚を恐れた動揺の現れだったのでは。
……うん、つじつまが合っている気がする。
私は「うんうん」とうなずいて赤子の泣き声が絶えず聞こえる方を向いた。
あともう少しだ。もう少し確証を得たら私は警察に通報しよう。
私は自然と不敵な笑みを浮かべていた。
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