1960年 ハンブルク

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「……あれ?」  施設のシュナイダー氏を見舞った帰り、ニコは黄色いささやかな花束を手に墓地を訪れた。どこにでも咲いている野草だが、幼い頃レーナがよくこの花を摘んで花冠を作っていたことを思い出す。懐かしい思い出に浸りながら墓地の前まで行くと、そこには新しい花束がそなえられていた。しかも明らかに店で買った、美しい切り花だ。  ユリウスが来たのだろうか。でも、今日は用事があって出かけると言っていたのに、なぜ墓地に?  ここ数日のユリウスは口数が少なく、ぼんやりと考えごとをする時間も多かった。そして今日は用事があるのだと言って珍しくひとりで出かけて行った。自分から行き先を話さないということは積極的に話したくはないということなのだろうと思い、ニコもあえてどこに何をしに行くのかは聞いていない。  用事を終えて、外出ついでに墓に立ち寄ったのだろうか。ニコはしゃがみこんで、売り物の切り花の隣に野草のブーケを置いた。 「レーナ、良かったな。今日はお花がたくさんだ。こっちのはユリウスが持って来てくれたんだろう?」  もちろんそこにあるのはただの墓石にすぎないのだが、ニコは「そうよ、ユリウスったら照れ屋だからお兄ちゃんには内緒にして欲しいんだって」とませた口調で笑い返してくる妹の顔と、それを微笑ましく見つめる両親と兄の姿を確かに見たような気がした。  しばらく心の中での家族との対話を楽しみ、また来るよと声をかけて立ち上がる。そこでニコは、少し離れたブロックに見慣れた後ろ姿があることに気づいた。  これまで一緒にこの墓地に来たときにユリウスが他の墓を訪れるのを見たことはない。だが、この街で生まれ育った彼だから、知り合いが眠っている墓が他にもあるのだとしてもおかしくはない。なんせ戦時中はハンブルクでも空襲でたくさんの人間が死んだのだ。  ユリウスはひとつの墓石の前でじっと佇んでいた。声をかけるのもはばかられてニコは少し離れた場所からしばらく見守っていたが、あまりにその背中が寂しそうなのでとうとう堪えきれずに一歩踏み出した。 「ユリウス」 「ニコ……」  ためらいがちに声をかけるとユリウスは振り向き、突然現れたニコの姿に少しだけ驚いた表情を見せた。  ほとんどニコの前で見せることのない暗い影がユリウスの顔を一瞬よぎり、消える。また過去のこと、戦時中のことを考えていたのだろうか。こういうときニコはユリウスがどこか遠い場所、自分の手の届かない深淵へ行ってしまうのではないかと不安に襲われてしまう。  だが——ニコは地獄を生き抜いた。そして他人を愛し守りたいという気持ちを知り、強くなった。だからユリウスが不安に襲われれば抱きしめることができるし、深淵に落ちそうなのであれば、その手を握り引き戻すことができる。 「お墓の花、君だろう。ありがとう」  強引に隣に並び不自然なまでに明るい口調で礼を言ったところで、自分の家族の墓に供えられていたのと同じ花束が目の前の墓にもおいてあることに気づいた。やはりここには知り合いが眠っているのだろうか。  ユリウスはニコの疑問に勘づいたのだろう。ゆっくりと口を開く。 「ずっと探していた人……昔世話になった人の母親を見つけて、やっと今日会うことができた。そしてここのことを教えてもらったんだ。こんなに近くにいたなんて気づかなかった」  ユリウスの口調には深い情と悲しみが込められていた。ニコは、あの人見知りで気難しくて敵を作りやすいユリウスに自分以外にも心を許した人間がいるのだろうかと胸の奥をざわめかせる。しかし続いてユリウスが告げた内容に不安はあっさり溶けて消えた。 「大切な友人だ。兄のように思っていた。あんな時代に、俺がおまえを探す方法を模索していることを知り、ヒントを教えてくれた。そして弱気になりそうな俺に、ニコを最後まで守り抜けと叱咤してくれた人なんだ。もしかしたら彼がいなければ俺はおまえを——」  ユリウスが視線を落とすのでニコはそれを追い、まだ比較的新しく簡素な墓石に書かれた文句に目を走らせた。  ——ダミアン、ここに眠る。享年二十一歳。  そしてユリウスは、ダミアンに向けて話しかけた。 「ダミアン、これが俺のニコだ。ニコは無事で、ここにいる。やっとあなたに紹介することができた」  ユリウスはニコの肩に手をかける。その手が小さく震えるのを感じながら、ニコはなぜだか一度も会ったことのないはずのダミアンなる人間が笑っている姿を目の前に見ているような気がした。美しい金髪に青い瞳を持つ長身の男が、寄り添って立つ二人を眩しそうに眺めているのを。 (終)
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