1950年 ミュンヘン

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 ユリウスは未練を断ち切るように言う。 「ニコ、もう二度とここには来ないで欲しい。俺も二度と会いには行かないから」 「そんな、でも」  ニコは言い返そうとするが、ちょうどそのとき看守が面会時間の終わりを告げた。ニコは唇を噛んで、立ち上がり扉へ向かうユリウスを見つめていた。 「さよなら、ニコ」  最後にひと言そう告げて、面会室を後にした。  ユリウスは奇妙な夢を見ているような気持ちで部屋に戻った。レオを殺したのは自分ではなかった。父親でもなかった。それは正直ユリウスの心を少しは軽くした。だが、ユリウスが積み重ねてきた罪はそれだけではない。  それに、どうしたって自分はニコを幸せにできない。ナチの支配が終わったとしても同性を愛することはこの世の中で普通とは見なされない。ユリウスは今では少年時代の自分がニコの優しさや幼さにつけこんでいたことにも気づいていた。あの頃のニコは決してユリウスと同じような感情でユリウスのことを想っていたわけではない。ただユリウスが都合よく、ニコも自分に恋愛感情を持っていると信じ込んでいただけだ。  だが、だからといってユリウスがニコを愛することを止めることはできない。ニコが近くにいる限りユリウスは同じことを繰り返すだろう。何しろ記憶を失っても変われなかったのだ。本人の気持ちも考えず、ただニコが欲しくて、ニコを自分だけのものにしたくて何度だって過ちを繰り返す。恐怖と絶望をその顔に浮かべたニコを組み伏せ細い体から血を流させる——二度とやらないといくら誓ったとしても、いつかまた繰り返してしまうだろう。ユリウスはニコと友人にも兄弟にもなれない。それは確かなことだった。  別れを告げた心は痛む。しかしこの痛みもまた罰だ。抱えて生きていくしかない。  呆然と部屋の隅でしゃがみ込んでいると、廊下から看守がユリウスの番号を呼んだ。ここではアウシュヴィッツで被収容者が番号で呼ばれていたのと同じように、受刑者は名前ではなく番号で呼ばれる。 「おい、差し入れだ。さっきの面会者から」  断る間もなく投げ込まれたのは下着や毛布といった雑多な生活用品だった。差し入れを持ってきたのは律儀なニコらしい。きっと見るたびニコを思い出してしまうだろうからこんなもの欲しくはないが、いまさら返す方法があるだろうか。
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