1950年 ミュンヘン

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 とりあえず床に散らばった差し入れを拾い上げながら、ユリウスはふとその中に見覚えのあるものが混じっていることに気づいた。  革製の小さな袋。ニコが後生大事に持っていたその中身が何であるかをユリウスは知ってる。  ウィーンでは記憶をなくしていたので、その中に入っていたぼろぼろの紙切れに「迎えにいく」と書かれているのを見つけて、誰かがニコを奪い返しに来るのだと嫉妬して不安に襲われた。あれをニコに送ったのが他の誰でもないユリウス自身だと思い出した今となっては、自分の影に怯えていたことは滑稽にすら思える。  ユリウスは革袋を握りしめた。ニコは長い間、ゲットー生活の間も収容所にいる間も、どんな思いであのメモを持ち歩いていたのだろう。幼い約束を信じて、ユリウスが迎えに来るのだと信じてずっと待ってくれていたのだろうか。なのに自分はニコを傷つけることしかできなかった。  ニコがこれをユリウスに返してきたというのは、お守りの役割は終わったということなのだろう。お守りも約束もなしに、今度こそ本当に過去と決別して、ニコはもう自由に新しい人生を生きていける。そしてユリウスのことなど忘れてしまうだろう。それは正しいことだと頭ではわかっているのに、傷つくことは止められない。  持っているだけ辛いからこんなもの破り捨ててしまおう。ユリウスは震える指で袋の中から触れるだけで砕けそうな古い紙切れを取り出した。そして茶色く変色したぼろぼろの紙切れの折り目を開き——目を疑った。  ——迎えにいく N  もともとそこに記されていたはずのイニシアル、ユリウスのJの上には真新しいインクで横線が引かれ文字が消されている。代わりに書き加えられたNのイニシアル。Nはニコ、ニコラスのN。  紙の隅にぽたりと水滴が落ちる。  この幻のようなメモが失われてしまわないよう、ユリウスはあわててそれを折りたたみ、元どおり袋の中にしまう。  失ったものは大きい。ユリウスは何より自分自身で多くのものを壊し傷つけてきた。それはいくら愛のためだと理由をつけたとしても決して許されることはない。  でも、ニコは。ニコだけは——。  ユリウスは床に崩れ落ち、突っ伏して泣き出した。人目も気にせず、声を上げて泣いた。  同室者が面倒くさそうに何やら怒鳴りつけてくる。おおかたうるさいとかそういったことなのだろうが、まったく耳には入ってこなかった。やがて彼らも呆れたのかあきらめたのか、癇癪を起こした子どものように泣くユリウスを放っておくことに決めたようだ。  その日、ユリウスはニコから与えられた新しい約束の証を握りしめ、涙が涸れるまで泣き続けた。
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