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「お世話になりました」
出所の日、ユリウスは深く頭を下げて刑務所の門を出た。右手には大切なお守りを握りしめているが、周囲を見回しても誰の姿もない。
迎えがないことに気づき、守衛が声をかけてくる。
「誰も来ないなら車を呼ぶか?」
「いいえ、大丈夫です。少し歩きたいので」
ユリウスは久しぶりの外の世界を吟味するように、ゆっくり歩いた。
この日のためにとハンスが新しい服を一式送ってくれた。「いかにも出所者って感じじゃ浮いちまうだろう」という文面。相変わらず率直だが思いやりのある手紙には、行き先がなければこれを使えと、多少の金だけでなくご丁寧にウィーン行きのチケットまでも同封されていた。ユリウスはハンスに貰った服を着て、その上にミュンヘンで療養していた頃にニコがくれたコートを羽織った。
ハンスは三年ほど前に戦前戦後のウィーンの街を描いた連作で賞を取った。今では国内外で個展を開くほどで、新進気鋭の若手画家としての立場を固めつつあるらしい。最後に面会に来たときにも「金ならうなるほどあるんだから、おまえひとりくらいどうにでもなるよ。気にすんな」と言って笑った。
ニコは、ニコは——その後どうなったか知れない。
ユリウスからの絶縁の言葉に従ったのか、二度と面会にやってくることはなかった。そして、差し入れのお礼に一度だけユリウスの側から送った手紙は宛先不明で戻ってきた。
ニコがくれた「迎えにいく」という手紙はただの社交辞令だったのかもしれない——ユリウスは次第にそう思うようになっていた。何しろ二度と会わないと一方的に告げたのはユリウスの側なのだ。そのくせいまさら迎えに来てほしいなど、自分勝手以外のなにものでもない。
ときおり、クラクフで暮らしているときのニコはこんな気分でユリウスのメモを眺めていたのだろうかと思うことがあった。期待は徐々に失望に変わり、やがて良い思い出に変わっていく。そういうものなのかもしれない。
ユリウスはのんびりとバス停まで歩いた。そこからバスに揺られ特に目的もないままミュンヘン中央駅に向かう。
もう逃げる必要はない。心情的なものはともかくユリウスは法的には償いを終えた。でも、どこにでも行けるのに、自分がどこに行きたいのかがわからない。
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