1955年 ミュンヘン

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 さんざん迷ってユリウスはハンスにもらったウィーン行きのチケットを取り出した。故郷に帰る勇気がないのだから、他に行くあてもない。  刑務所ではありがたいことに職業訓練を受けることができ、ユリウスは活版工の仕事を選んだ。親衛隊員になって以降ほとんど本を読むことはなくなっていたが、学生時代の一時期本が好きだったことを思い出したのだ。もちろんハンスから「ニコが出版社で働いている」と聞いたことも影響している。  本に関わる仕事ができればどこか遠くでニコとの繋がりを絶やさずにいられるような気がして、活字を拾う作業は喜びに変わった。頼りっぱなしで申し訳ないが、ハンスは画集も出しているはずだからもしかしたら印刷所のつてを持っているかもしれない。それとも元ナチ戦犯など雇ってくれるところはないだろうか。  駅の周辺の光景には見覚えがある。そういえば戦後療養を終えて病院を出たあのときも、ここからウィーンへ向かう列車に乗った。まだ少し痛む脚で、見送りの際ニコに上着を贈ったサラを無性に妬ましく思った記憶がぼんやりと蘇る。  あのときのユリウスは、無力な自分がニコの足手まといにしかならないことを不安に思いながら、それでもただニコと一緒にいたかった。ニコと一緒にいられるのならば、生活の場所はミュンヘンでもウィーンでもどこでも良かった。自分の犯した罪をすべて忘れて、ユダヤ人の哀れな戦争被害者だと信じて、あれは今思えばニコが与えてくれた束の間の幸せな幻想だった。だが、何もかもは過ぎ去ってしまった。  思い出に浸りながら切符を手に、改札へ向かおうとしたそのときだった。 「どこに行くの?」  背後から柔らかい、懐かしい声がした。  これが聞き間違いだったらあまりに辛い。ユリウスは振り向くことをためらった。しかし期待にあらがえず、ゆっくりと声の方に顔を向ける。 「ニコ……どうして……」  そこにはニコがいた。走って追いかけてきたのか少し息を切らして、ニコがはにかむような笑顔を浮かべて立っていた。 「西ベルリンからの到着が遅れて、聞いていた出所の時間に間に合わなかったんだ。行き違いだって聞いてどうしようかと思ったよ」  いざ顔を見ると、嬉しくてたまらないのにユリウスは裏腹なことを言わずにいられない。 「……もう会いに来るなって言ったはずだ」  それはもはやニコの身を案じる言葉ですらなく、自分の心を守るためだけの強がりだ。本当は期待したい。でも期待した挙句にまた失えば、今度こそ立ち直れないほど深く傷つく。だから思わせぶりに優しくしないで欲しい。
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