1955年 ミュンヘン

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 ユリウスはうつむいて、切符を持っていない方の手で顔を覆った。感情があふれ出し自分がどんな顔をしているのかわからない。とにかくニコに見せられないくらいみっともない顔をしていることは確かだ。  ニコは一歩踏み出し、ユリウスの目の前に立つと戸惑ったように言った。 「だって迎えにいくって約束したから。君は約束を守ってくれたから、僕も守ろうと思って」 「……手紙を書いたのに……宛先不明で戻ってきた……」  ユリウスは自分が愚かなことを口にしていると知っていた。しかし恨み言にも似た言葉が口から飛び出すのを止めることができない。だって本当は手紙が戻ってきたことにも、あれ以来一度も面会に来てくれないことにも、そして今日門の外にニコの姿がないことにも、ユリウスは落胆し傷ついていたのだから。  ニコのためにもう会わないとどれだけ決意したところで、自分の心はどこまでも欲深い。ユリウスは自分自身の弱さを完全に認めるしかなかった。 「ごめん、あの後すぐに住んでいたアパートが取り壊しになって引っ越したんだ。まさか君が手紙をくれたなんて知らなかった。うまく言いたいことが伝えられない気がして僕からは手紙は書けなくて……」  あわてたように謝ったニコは、それでもユリウスが何も言わないので途方にくれた表情でつぶやいた。 「それとも、ここに来たのは迷惑だった?」  迷惑なんて、そんなはずはない。しかしその気持ちをどう表現すればいいのかわからず、ユリウスはただ首を振って必死にニコの言葉を否定する。  もう二度と会わないと思っていた。  あきらめたつもりだった。  それでも何度も夢に見た。  夢の中でニコに触れ、幸せに溺れては冷たい部屋でひとり目を覚まして絶望に沈むことを何度繰り返しただろう。いや、刑務所の中だけではない。ユリウスは十四歳の時から数え切れないほどニコの夢を見てきた。いつも、会いたくて触れたくて叶わなくて——。 「これは夢じゃないのか。俺はもう、目を覚まさなくていいのか」  ユリウスが半分独り言のようにつぶやくと、顔を覆う手にそっとニコが手のひらを重ねてくる。柔らかい動きで促されるようにゆっくり目隠しを外すと、そこではニコが笑っていた。 「悪い夢は終わりだよ、ユリウス」  そう言って、懐かしい子どものように、初めて会う大人のように、ニコはただ優しく笑った。 「覚えている? 次に目を覚ましたら話をしようって言ったこと。僕には君に話したいことがたくさんあるんだ。もちろん離ればなれだった間の君のことも、全部聞かせて欲しい」  ニコは固く握りしめたままのユリウスの左手に白い指を伸ばした。それから拳を解くとまずは「約束」の書かれたメモを取りあげ、ユリウスが止める間もなく小さく破り捨て風に流してしまった。もう決して二人離ればなれにならないのならば、これ以上の約束はいらない。  それからニコはユリウスの手の中に最後まで残されたウィーン行きの切符に目を落とす。 「ねえユリウス、君はどこに行きたい?」  ユリウスはまだ躊躇していた。自分は本当にニコと一緒に行っても良いのだろうか。再び自分たちはここからはじめることができるのだろうか。  見つめてくるニコの目はどこまでも優しい。その優しさに背中を押され、ユリウスは愛おしい茶色の瞳をのぞきこみながら勇気を振り絞ってゆっくりと手を開く。ウィーン行きの切符はそのまま風に乗り、どこかへ消えていく。  そしてユリウスは涙混じりの声で答える。 「ニコの行きたいところなら、どこへでも」 (終)
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