1956年 西ベルリン

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1956年 西ベルリン

 夜九時半。その日最後の講義が終わり、バッグに荷物を詰め込んでいると若い友人が声をかけてきた。 「ニコ、帰りにみんなでビールでも飲みに行こうかって話してるんだけど、一緒にどう?」  ニコは昨年の秋に念願の大学入学を果たした。  戦争が終わって十年が経ち、一時期は完全にあきらめていた高等教育にようやくたどり着くことができたのは我ながら感慨深い。もちろん仕事をしながらなので在籍するのは夜間学部。昨年三十代に足を踏み入れたニコは夜間学生の中でも決して若い方とはいえないが、こうして分け隔てなく声をかけてくれる同級生たちの気遣いは嬉しいものだ。  しかし、ニコはその誘いを迷わず断ってしまう。 「ごめん。家で食事ができてるはずだから、今日はまっすぐ帰るよ」  手を振りながら足早に教室を出て行くニコの背中に、友人たちが交わす噂話がくすぐったい。 「ニコっていつもまっすぐ家に帰るけど、結婚してるんだっけ? 「いや、友だちとルームシェアしてるって聞いたけど」 「飯作ってくれるって、ずいぶん面倒見のいいルームメイトだなあ。うらやましいよ」  そう、今のニコには家に帰れば待っている人がいる。  仕事があり、学校に通い、帰る部屋がある。それだけでも十分幸せだったニコのベルリン生活には半年ほど前から新たな喜びが加わった。仕事と学校で疲れ果てているはずなのに、アパートメントの狭い階段を四階まで駆け上がる足取りは軽く、玄関の扉を開くのとほとんど同時に声をかける。 「ただいま」  狭い部屋なのでその声はすぐにリビングまで響き、ソファーで本を読んでいるユリウスが立ち上がる気配がする。 「おかえりニコ。腹が減ってるだろ、すぐできるから」  ニコは大体毎日同じ時間に帰宅するから、準備のいいユリウスの手ですでに鍋は火にかけられている。上着を脱ぎ荷物を下ろす間にも、スープをよそった皿やパン、ハムやチーズがテーブルに並ぶ。今日は仕事が忙しかったから夕方学校に行く前に軽く何か食べる時間もなかった。スープのいい匂いにニコは胃がぎゅっとするような空腹を覚えた。  家に帰れば、ユリウスがいる。そんな奇跡のような生活がはじまって早いもので半年近くが経とうとしている。  ミュンヘンの刑務所を出所したユリウスを、ニコは自分が暮らす西ベルリンに連れてきた。アパートメントの部屋は寝室とリビングが分かれていて、キッチンだってある。決して新しくも広くもないが、二人で暮らすことも難しくはない。  新しい生活をはじめて間もなく、ユリウスは市内の印刷所に活版工として勤めはじめた。仕事先はニコの勤める出版社の社長が紹介してくれたので、相手もユリウスの過去や事情は承知している。しばらく経ってから、手先が器用で真面目だと仕事先でのユリウスの評判を社長経由で聞いて、ニコはまるで自分が褒められたかのように誇らしい気持ちになった。  印刷所の仕事はたまに急ぎの作業が発生する以外はほぼ定時で終わるらしい。ユリウスは学校のために帰りの遅いニコのために毎晩夕食を準備して待っていてくれる。その他の家事も率先してやってくれるので、頼りっぱなしのニコはありがたい反面少し申し訳ない気分にもなる。  ニコは当初、ユリウスにも学校に戻ってもらうつもりだった。ギムナジウムで十七歳まで学んだユリウスならばニコよりも学業の取り戻しは早いはずだ。しかし、ニコがいくら夜学のパンフレット片手に勧めたところで、ユリウスの答えはあっさりとしたものだった。 「俺はそういうのはもういいんだ。元々勉強が好きだったわけでもないから。手を動かす仕事ができれば満足だよ」  戦時中ユリウスはナチスの幹部候補生を養成するための特別なギムナジウムであるナポラで学んでいた。戦犯として裁かれた過去を持つ彼にとって、学校に戻ることは再び過去を暴かれる可能性をも意味するのかもしれない。ニコはユリウスに学校を勧めることをやめた。 「今日は、授業の後で飲みに行かないかって誘われたんだ。みんな、年の離れた僕にも気を遣ってくれて、すごく優しいんだよ」 「行かなくて良かったのか?」 「うん。明日も朝から仕事だし、家で食事したかったから」 「俺のことは気にしないで、行きたいときは遠慮なく行ってきていいからな」  食事をしながら、その日の他愛のない出来事を話す。それからニコはすぐに小さなダイニングテーブルを机がわりに学校の課題に取りかかり、ユリウスは後片付けをしたり、ソファで本を読んだりして夜の短い時間を過ごす。  収容所で過ごしたの日々のように、ユリウスがニコに罪悪感を持つことも、ニコがユリウスを憎む必要もない。ウィーンでの生活のように、何もかもを嘘で塗り固めながら偽りの日々の崩壊に怯えることもない。なんの秘密も隠しごともない二人の生活。決して手に入ることはないと思っていた穏やかな日常が、今では当たり前に目の前にある。  ——しかし、ニコの心は一点の曇りもなく、とはいかない。  日付が変わる頃、ニコはようやく教科書とノートを閉じる。勉強にきりはないが、明日も朝から仕事なので睡眠をおろそかにするわけにはいかない。 「そろそろ寝ようかな」  ニコがそう言ってひとつ大きく伸びをすると、ユリウスは「じゃあ、俺も」と手にした本を閉じ、ソファの背もたれにかけた毛布を手に取る。その慣れた動作を横目で見ながら、今日もか、と内心では落胆しつつニコは念のため確認してみる。 「……ここで寝るの?」 「ああ」 「……ソファ、狭いだろ?」 「大丈夫だよ」  あっさりと否定されれば、それ以上何も言えなくなる。あまりしつこくしても変に思われそうなのでおとなしく寝室に引っこむことにするが、ふと気になってユリウスがさっきまで夢中で読んでいた本を手に取った。 「この本、面白いの?」 「ああ、職場の同僚が貸してくれたんだ。後で読むか?」  しばらく表紙を眺めて、ニコは再び本をテーブルに戻す。 「ううん。僕はいいや」  職場の同僚ってどんな人? それは男なの、女なの? 年齢は? 次々と押し寄せる疑問をニコはすべて喉元で押しとどめてしまう。ウィーン時代にさんざんユリウスを束縛してけんかの原因を作った。あんなことはもう繰り返したくない。それにあの頃の束縛と今の束縛では意味合いが違ってくる。  おやすみ、と告げてニコはリビングを後にする。  狭い寝室にあるのはひとり用の狭いベッド。確かにここで大人の男が二人で眠ろうというのも現実的ではない。今では家賃を半分入れてくれているとはいえ後から転がり込んできたユリウスが遠慮してソファで眠るのはおかしな話ではないし、ニコが逆の立場だったらきっと同じことをするだろう。でも、ニコが気にしているのはそういうことではなくて——。  ユリウスは出所してから半年の間、一度もニコに触れていない。  それはセックスだけを意味するのではなく、例えば挨拶のようなキスや抱擁ひとつ、二人の間で交わされていない。だからといってユリウスの態度にぎこちない自制を感じるわけでもなく、ただごく自然に生活した結果が今の「献身的なルームメイト」であるように見えるからたちが悪い。率直に言って、今の生活は幸せではあるが、ニコの想像していたものとは異なっている。  ユリウスは、ニコが焦れていることに気づいているだろうか。ひんやりと冷たいシーツに体を潜り込ませながら考える。  ユリウスは優しい。出会ってから今までで、表面的な優しさだけでいえば今が一番と言っていいほどに優しい。わがままだったり強引だったり独占欲が強かったり、優しく頼れる中にもどこか困った部分を併せ持っていた彼がただひたすら物わかりよい振る舞いを続けるのは、嬉しい反面心のどこかで物足りなさを感じてしまう。  職場の話をしても、学校の友人の話をしても、ただ微笑ましそうにしているだけのユリウス。もちろんむやみやたらと嫉妬されたって困るのだけれど、ニコの気持ちは複雑だ。  長い間ユリウスの切実な愛情にろくに気づきもしなかった自分に、いまさらこんなことを言う資格はないのかもしれないとも思う。でも、長い誤解の果てに自分がユリウスをどう思っているかを自覚し、誤解が解けたことでようやく彼と一緒に生きていく覚悟を決めたのだ。  しかしニコは最近、ユリウスが本当に自分と同じ気持ちでいるのか不安に襲われることがある。  一度、ニコと一緒にいるユリウスを見かけた同僚女性が「ニコのルームメイト、素敵な人じゃない」と言った。そのときニコはようやく、大人になったユリウスが他人からどのように見えているのかを意識した。  ニコの中では姿かたちは大人であってもユリウスは子どもの頃のままの「困った少年」として認識されていたから、彼が世の女性からどのように見られるかなど考えたこともなかったのだ。  よくよく客観的に見れば、ユリウスは魅力的な人間だ。背が高く顔立ちも整っていて、頭だって悪くない。性格に偏りこそあったものの、もしあのまま育っていればどこかでニコなんかよりよっぽど魅力的な、例えばイレーネみたいな女性に心奪われたかもしれないのだ。そのユリウスの心を少年のままニコに縛りつけたのは、人見知りからくる幼い刷り込みと、そこから先はきっと——罪悪感。ニコから兄を奪ったという誤解による罪の意識が、もしかしたらユリウスのニコへの執着を強める結果になったのではないか。  もちろん今のユリウスは全身が古傷だらけで、しかも戦犯として服役した過去を持つ。そのことが彼の価値をどの程度損なうのかはニコにはよくわからない。ただ、そういった負の要素が少しでも他の人間をユリウスから遠ざけるのだとすれば……それを嬉しいと感じてしまう自分をニコは醜いと思う。  ウィーンでは、兄弟としての偽りの生活を維持するため、ユリウスが間違って変な気持ちを起こさないよう狭い部屋の中では着替えひとつにも気を配っていた。彼の中にニコへの恋愛感情が蘇ることへの恐怖、そしていざ組み敷かれたときの果てしない絶望——なのになぜ今になって、あの暴力的で情熱的な瞳や指先を恋しいなどと思ってしまうのだろう。  考えれば考えるほどニコは不安になるばかりだ。  なにしろ今の自分は十四歳の頃とも、十八歳の頃とも、二十三歳のときとも違う。離ればなれに過ごした時間を超えて、ユリウスはちっとも変わらないどころか、苦悩の数だけ色気が増したようにすら見える。一方でただ時間を重ねただけの自分は衰えていくばかりだ。  刷り込みされた鳥のようにニコのことだけを考えてきたユリウスが、ようやく心身ともに自由になって、それでもまだニコのことを前のように強く思ってくれるのだろうか。ユリウスの罪滅ぼしのような優しさに触れていると、この幸せは長くは続かないのではないかという不安がときおりニコを襲う。  いつかユリウスは、ここを出て行くのかもしれない——嫌な想像から意識をそらそうとしてニコは毛布をかぶってぎゅっと目を閉じる。それでもまだ眠れそうにないので、そっと寝巻きの、そして下着の中に手を忍ばせる。  ユリウスがここにやってきてから、ニコはひとりで欲望を慰めることが増えた。もちろんユリウスは気づいていないはずだ。声を殺して、すぐ隣の部屋にいる相手の指や吐息を思い浮かべるのはひどく惨めだ。こんなふうに自分でこそこそと体の熱をおさめるのは健康な三十歳の男としては普通のことなのか。それとも自分はおかしくなってしまったんだろうか。 だってユリウスは平気な顔をしている。  まだ静かな性器に自らの指を絡め、今でははるか遠いものになった記憶の中の大きな手を、少し乱暴な指先を思い出す。少しずつ動きを激しくすると、手の中のものはあっという間に硬くなり、指先を濡らす。 「……ふ……あっ」  想像だけでニコは簡単に高まり、その間だけは不安を忘れることができる。
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