1956年 西ベルリン/ハンブルク

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1956年 西ベルリン/ハンブルク

「聞いてない」  次の休日の朝、ニコの真意を知らされたユリウスは大いに驚き、それから不機嫌になった。  一緒に出かけたいと思わせぶりに言われて、平静を装いながらもとても楽しみにしていたのだ。同じ部屋で暮らしはじめてからも日々の生活に追われ、ゆっくり二人で外出することなどなかった。休日だってニコはほとんど家か図書館で勉強していたし、ユリウスもニコのやりたいことを一番に優先したかったから特に不満があったわけではない。だが、ようやくデートのようなことができるとなれば、それはそれで心踊った。  まさかその行き先がハンブルクであるとは思ってもみなかった。再会して以来一度としてニコの口から故郷の話題がでることすらなかったのに、なぜいまさら。  もちろんユリウスにとっても故郷であるハンブルクは思い入れのある場所だ。ナチスによる支配が強まり、戦争に突き進む時代を過ごしたという意味ではひどく苦い記憶に彩られてはいるが——他でもなくそこでユリウスはニコと出会い、幼い日々を共に過ごした。しかしユリウスはまだ、ハンブルクを懐かしい過去のひとつとして訪問するだけの覚悟は持てずにいた。なぜなら、そこには長い間音信不通にしている父がいるからだ。  仏頂面で考え込み、もしかしたら隠していた父からの手紙の束をニコに見られたのかもしれないと思い当たる。心優しいニコのことだから、ユリウスと父を和解させようと思って決して安いとはいえないハンブルク行きの航空券を二人分買い求めまでしたのだろう。後ろめたさからあの手紙を捨てることができずにいたのが間違いだったと後悔するが、すでに手遅れだ。 「君のためじゃない、僕が君のお父さんに会ってお礼を言いたいんだ。嫌なら、どこか別の場所で待っていてくれればいいから」  心にもないことをニコはいけしゃあしゃあと言ってのける。ただ、ニコがユリウスの父に礼を言いたいというそれ自体はハンブルクを訪れるには真っ当な理由で、だからユリウスははっきりと反論しづらくなる。  かつてニコとその両親、そして妹がゲシュタポから逃れポーランドへ亡命しようとしたとき、ユリウスの父が密かにその支援をしたのだという。商売を通じてナチ政権に貢献し、ユリウスにもユダヤ人であるニコとの付き合いを控えるようことあるごとに言っていた父がそんなことをするなんて、ユリウスとしてはまだ信じられずにいる。だが、ニコは人から聞いた話を完全に信じ込んでいるようだ。 「ニコ、おまえはそのレオの友人とかいう奴に担がれているんだ。俺の父親がそんなことするはずない。礼を言う必要なんかないよ」 「でも、ブルーノが僕に嘘を吐く理由なんかないよ。それに、はっきりとしたことがわからないからこそ確かめたいんだ」  結局二人は昼にはハンブルクに着いた。ニコが強い意志を示せばユリウスは最終的に従ってしまう。これはもう、幼い頃から染み付いた条件反射のようなものなのかもしれない。  懐かしい街の姿は、激しい空襲によりずいぶん様変わりしていた。しかし大きな河にある港や開放的な雰囲気自体は昔と大差ない。ニコの強引な行動への反感があるので口には出さないが、故郷の町の土を踏んだことでユリウスの心にも懐かしさや喜びがこみ上げた。 「僕はあのとき以来十六年ぶりだ。ユリウスは?」  目をきらきらさせて子どものように落ち着きなく周囲を見回しながら、ニコは完全にはしゃいでいる。ナチスによるユダヤ人排除が激しくなる中でニコがここで過ごした日々の半分は暗い思い出であるはずなのに、一体なぜこんなに嬉しそうな顔ができるのか。もしかしたら父のいる場所にやってきてナーバスになっているユリウスに配慮してわざと明るく振舞っているのだろうか、真意はわからない。 「学生時代に一度休暇で戻ったことがあるから、十四年くらいだな。ニコとたいして変わらないよ」 「そうなんだ。ほら、見て、あの教会覚えてる? 懐かしいな」  だが、ニコがあまりに自然な笑顔を見せるので、やがてユリウスは自分が腹を立てていたことすら忘れた。昔からニコと一緒だといつもこうだったな、とそんなことすら懐かしい。  最後に故郷に戻ったときはナポラの学生で、ヒトラーユーゲントの制服を着ていた。もしもあそこで立ち止まっていれば、親衛隊に入ることもなく、アウシュヴィッツに行くこともなく罪を犯さずにすんだのかもしれない。でも、ユリウスがあのとき別の道を選んでいれば、ニコと再会することはできなかっただろう。そして、あの過酷な戦争の中、ニコは収容所で生き延びることができなかったかもしれない。  もちろん自分がいなければニコが確実に死んでいたとは思わないし、ニコに対してそんな恩着せがましい物言いをすることは決してない——しかしユリウスは、たとえもう一度あのときに戻れたとしても、自分は同じ選択をするだろうと思う。同じようにニコを生き延びさせることを望み、それと引き換えに重い罪を犯してしまうのだと。  考え事をしているうちに、目指す場所の近くまで来てしまったらしい。ニコが立ち止まり、訊ねた。 「ユリウスは、どうする?」 「どうするって?」  ユリウスが訊き返すと、ニコは今になって体裁の悪そうな顔をして見せた。 「お父さんと会うのが本当に嫌なら、どこかで待っていてもらってもいいんだ。無理を言うつもりはないから」  顔を上げるとほんの一ブロック先に少し大きな、民家とは異なる雰囲気の建物が見えた。きっとあそこが父からの手紙に書かれていた住所なのだろうとユリウスは察する。 「待ってていいって……そんな気さらさらなかったくせに、白々しいぞ」 「……うん、まあ、そうかな」  ユリウスが恨みがましい言葉を吐くと、ニコは取り繕うように笑って見せた。その笑顔でユリウスはもう全部を許してしまう。  とはいえ、このすぐそばに父親がいるのだと思うと緊張は高まる。刑務所に送られた手紙は一通も読んでいないので、勝手なことをしたあげくに戦犯になった自分に対して父が今どういう感情をもっているのか、まったく想像もつかない。厳しい父のことだから、怒り狂っていることも十分想像できる。 「勝手なことしたって、怒ってる?」 「少しだけ」  怒ってはいない。ただ怖いのだ。ここに至ってユリウスは、かつてハンブルクで過ごした時代に引き戻されていた。父親の顔色をうかがってばかりだった幼い時代、その反動でひたすら反発していた思春期。青くさい感情が一気に押し寄せてきて、両の掌が汗でぐっしょりと湿った。  目的の建物は、高齢者や身障者が生活する介護施設だった。一歩足を踏み入れると、戦傷者なのか体の一部が欠損している人々や、表情の虚ろな高齢者の姿が目に入り、ユリウスはなおさら動揺した。厳しく強かった父親がこの人々と同じような環境にあるということを頭が受け入れようとしない。だが、紛れもなくそれは事実なのだ。  そわそわ落ち着かないユリウスをロビーに残してニコが受付に行くと、愛想のいい若い女が対応した。やがて戻ってきたニコは「二階の奥だって」と言う。笑顔を浮かべてはいるが、ニコもまた緊張を隠しきれてはいない。  教えられた部屋のドアを開けると、ベッドで上半身だけ起こして読み物をしている男性の姿が見えた。ユリウスは自分の心臓が飛び跳ねるのを感じて、部屋の入り口でたちすくむ。ちらりと顔色をうかがってきたニコは、「落ち着いて」と言いたげにゆっくりとユリウスの背中を撫でた。  頭髪には白いものが多く混じっている。全体的に痩せて小さくなった。ベッドの横に車いすが置いてあるのは、足が不自由だからなのかもしれない。その姿に胸がぎゅっと締めつけられ、ユリウスは親ひとり子ひとりであるにも関わらず、自分がどれだけ親不孝をしてきてたかを思い知る。 「……父さん」  呼びかける声は震えた。  父が顔を上げて老眼鏡を外した。驚いたように目を見開き、そして……。 「父さん、ごめん」  ひとり息子からの謝罪の言葉に、父は声もなく涙を流した。
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