1956年 西ベルリン/ハンブルク

2/2
前へ
/347ページ
次へ
 ユリウスは、父が泣く姿を初めて見た。記憶が確かであるならば、母が死んだとき父はただ難しい顔をして唇を噛んで弔問客の対応をしていた。そこに涙はなかった。ユリウスがわがままを言ってなかば無理やりナポラへの進学を決め、ハンブルクの駅から旅立つ時も父は涙を見せなかった。だからユリウスは父のことをただ冷たい人間なのだと思っていた。父がいつだって必死の思いで涙をこらえていたかもしれないなんて、微塵も想像することなしに。  ユリウスはただ謝ることしかできなかった。他に何を言えばいいのかわからない。一度だって父の言うことをまともに聞かず、我儘と癇癪で反抗し続けた。勝手なことばかりして、最終的には戦犯として刑に服すことになった。ニコのことを思えば何ひとつ後悔はない。ただ、自分がどうしようもない親不孝者であることもまた事実だ。  故郷にも戻らずこんなところで父はひとり、もしかしてユリウスの帰りを待っていたのだろうか。それとも、もしかしたらユリウスが戦犯になってしまったことで親類の中で肩の狭い思いをしているのだろうか。ベッドの周囲は簡素で、ほとんど来客や見舞いの痕跡もない。  父から見えないようそっと、ニコが後ろから背中を押してくれる。ユリウスはベッドの横まで進み、シーツの上でぎゅっと握りしめ震えている父の手に向けて手のひらを伸ばした。少しのためらいを見せた後、父もぎゅっと手を握りしめてくる。 「……謝らなくていい。生きて顔を見ることができた、それだけで。……ああ、神様……」  父がぽつりとつぶやき十字を切った。それがすべてだった。  親子は黙ってしばらくそのまま手を握り合っていた。やがて入り口のあたりに立ったままでいるニコに気づいた父親が顔を上げる。涙はようやく止まったが、その目は赤いままだ。 「君も……来てくれてありがとう」  ニコはびくりと体を震わせる。ユリウスは自分の不安で頭がいっぱいだったが、ここに来てユリウスの父と顔を合わせることにはニコだって大きな勇気が必要だったに違いない。 「あの、僕は」 「大丈夫だ、わかるよ。グロスマンの次男坊だろう。君が無事で良かった」  何から話せば良いのかわからず戸惑っているニコに向かって父は軽く微笑み、もっと近くに来るよう手招きをした。ニコはおずおずと足を進め、ユリウスの隣に並ぶ。 「すみません。僕、本当はもっと早くお礼を言いに来なければいけなかったのに。いやお礼というか、謝罪というか。僕は……」  父がユリウスとニコの間にあった出来事をどこまで知っているのかはわからない。ユリウスも、ニコとの現在の生活をどう説明すれば良いのかまでは頭が回っていなかった。  ニコの頭の中はきっとぐちゃぐちゃなのだろう。かつての逃亡支援に感謝する気持ち。ユリウスが戦犯になったことに責任を感じ謝罪したい気持ち。口下手なニコが青い顔をして言い淀むので、逆に父の側が助け舟を出した。 「君が無事だったという話は、こいつの弁護士の先生から手紙で教えてもらった。ご家族のことは残念だが、君だけでも生き延びたのは嬉しいことだ」 「あなたのおかげです、シュナイダーさん。あのときあなたが車を手配してくれなければ僕もきっと死んでいました。……失礼ですが、あの後大変な目に合われたのでは」  ニコは横目でちらりと車椅子を見る。ユリウスも気になっていたが、腰から下がシーツの中にある父の様子はよくわからなかった。 「たいしたことはないさ。空襲で何もかもが焼けて脚を一本なくした。でも今はここで世話になって、スタッフには親切にしてもらってるよ」  苦難に満ちていたであろう日々をひと言で済ませ、父はやはり穏やかに笑った。  空襲で家も工場も焼けてしまい、建物の下敷きになった父は腎臓を片方摘出した上に片足を切断する羽目になった。しかし長く暮らしたハンブルクを離れる気になれず、福祉の世話になって戦後はこの施設で生活をしている。忙しく働き続けていたから、少し早めにリタイアしたんだと思ってのんびり楽しんでいるよ、という言葉にはもちろん多少の強がりがこもっているだろう。そんなところは頑固で見栄っ張りな父らしいと思えた。  しばらくそのまま話をした。日帰りだからあまり時間がないのだというと、少しだけ父の表情が曇った。思わずユリウスが「また来るよ」と言うと心底嬉しそうに笑う。そして、並んで立つユリウスとニコをじっと見つめ、父はおもむろにニコに話しかけた。 「私は早くに妻を亡くして、息子にどう接したらいいかわからなかった。そのせいもあるのだろうが、こいつは私に似てわがままで気難しくて、ろくな人間には育たなかった。……でも、君のことを話すときだけは息子がずいぶんましな人間に見えたよ」  目の前で、愛のこもった口調で貶されたユリウスは気まずく笑った。 「君たちが共に生き延びたことも、今日一緒に来てくれたことも、とても嬉しいよ」  別れ際に告げられた言葉にユリウスは、父は何もかもを知っているのかもしれないと思った。もちろん細かいあれこれまで承知しているはずはないが、ユリウスがニコのことをどう思いどれほど必要としているかを知った上で、それを認めてくれているのかもしれない。  多分に願望も混ざっているのかもしれないが、揃ってわがままで気難しくてろくでもない似た者親子だからこそ、ユリウスは父の言葉を素直に受け止めていいような気がした。  そして、帰り際にはこの日二つ目の予想外の出来事がユリウスを訪れる。ニコとふたり部屋を出てロビーへ続く階段へ向かおうとしたところで、突然背後から声をかけられたのだ。 「坊ちゃん? あなた、ユリウス坊ちゃんでしょう」  その声に足が止まる。長い間耳にしていないその声、その呼び名。父に会いに来たその日に、まさか、こんなことが起こるとは——。  ユリウスがゆっくりと振り返ると、そこには腰が曲がって小さくなった老婆がいた。黒く縮れた髪に大きくかぎのように曲がった鼻、そして、少しだけイディッシュ訛りのあるドイツ語。 「ナタリー……」  ユリウスは全身が凍りついたかのように動けなくなった。  ハンブルクに引っ越してからの数年間、幼いユリウスの数少ない理解者だった家政婦のナタリー。ユダヤ人排斥の動きの中イギリスに去り、その後ユリウスは様々な心境から彼女に手紙を書くことをやめ。それきりになっていた。  ユリウスにとって彼女はこの世でニコの次に、親衛隊員になったことを知られたくない相手だった。なぜドイツを去ったはずのナタリーがこんな場所にいるのだろう。 「坊ちゃん、立派になられて」  ナタリーの隣に寄り添う中年男は、ちらりと話に聞いたことのあるナタリーの息子だろうか。男に腕を支えられ、しかししっかりとした足取りでナタリーはユリウスの目の前まで歩いて来た。 「ロンドンにいるんじゃ……」 「ええ。ただ、戦争で旦那様が体を悪くされたと聞いてからは、たまにこうやって息子に頼んでハンブルクへ連れて来てもらっているんです。なんせ、旦那様は命の恩人ですから」  ユリウスの父は、当時ナチス支配下のドイツから出国する際にユダヤ人に課されていた多大なる出国税を払ってやった。ナタリーは今もそのことに恩義を感じて、年に数回は面会にやってきているのだという。  父と自分が似ているなんて、やっぱり嘘だ——ユリウスは思い直す。  黙ってナタリーを救い、ニコの家族にひっそりと手を差し伸べた父と比べて、あの頃のユリウスはただ好きな人が遠くに行ってしまうことが耐えられず駄々をこね続けた。自分が本質的には子どもの頃と何ひとつ変わっていないことを思えば、今同じような状況が訪れたとして父のような行動を取れる自信はない。父はユリウスとは違う、立派な人間だ。  ナタリーが元気でいることは嬉しい。本当ならば抱き合って再会を喜びたい場面なのに、ユリウスは下を向いて黙り込んでしまう。  彼女は何をどこまで知っているのだろうか。ユリウスがナチスドイツのために働き、親衛隊員として末端ながらユダヤ人の処刑に関わったことを知っているのだろうか。いや、知っていたらこんな笑顔を向けては来ないはずだ。気まずさにうつむくと、心境を察したのかニコがそっと背中に手を当ててきた。 「ナタリー。ナタリーすまない、俺は……」  震える声で自分がどんな人間になってしまったかを告げようとしたところで、しかしナタリーは言葉の続きを遮った。 「坊ちゃん、何もおっしゃらないでいいんですよ」  ユリウスはハッとして顔を上げる。ナタリーはまるで、わがままで癇癪持ちで孤独な五歳の子どもを相手にするような口調で、優しい笑顔を浮かべて続けた。 「誰がなんと言おうと、ナタリーはユリウス坊ちゃんがいい子だってことをわかっています。坊ちゃんが一見して人に責められるようなことをしたとしても、それはご自身の正義があってなさったことなんでしょう」  枯れ木のように痩せた老婆の手。ユリウスはゆっくりと手を伸ばしてそれを握りしめた。再び顔を伏せてしまうのは、今ナタリーの黒い目と見つめ合えばきっと涙がこぼれてしまうからだ。  しばらくそうしていただろうか。ユリウスの感情が落ち着くのを待ってから、その後ろに隠れるようにして立っているニコに目をやり、ナタリーはいたずらっぽく笑った。 「覚えていますよ、グロスマンの坊ちゃんと最初に会った日のこと」  ユリウスは振り返り、ニコと視線を合わせる。  うっすらとだが、記憶にはある。他に人のいない公園でナタリーと二人で遊んでいるときに偶然ニコが母親と現れたこと。あちこちに飛び跳ねた茶色い髪が、太陽に透かされて綺麗だったこと。  ナタリーは続ける。 「せっかく手を差し伸べてくれたのに、ユリウス坊ちゃんは恥ずかしがってどうしても握り返せなくて、ご自分のせいにもかかわらず、後でずいぶん悲しいお顔をしていらっしゃいましたね」  一気に幼い記憶が生々しく蘇り、ユリウスは赤面した。一方ニコはそのときのことをはっきり覚えていないのか、ぽかんとして笑うナタリーと顔を真っ赤にして黙り込むユリウスを眺めている。 「ユリウス……?」 「お、覚えてない。そんなこと」  思わず言い返すが、それが真っ赤な嘘であることは誰の目にも明らかだった。
/347ページ

最初のコメントを投稿しよう!

453人が本棚に入れています
本棚に追加