1956年 西ベルリン

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1956年 西ベルリン

 西ベルリンのアパートメントに帰り着いた頃にはすっかり夜が更けていた。日帰りの強行軍の疲れはあるものの、それ以上にユリウスの心は満足感でいっぱいだった。 「コーヒーを淹れるから、君はゆっくりしてて」  部屋に入ると、そう言ってニコはすぐにキッチンに入った。夕食は帰る途中に空港で軽く済ませてきた。いや、正確にはあまりにも胸がいっぱいで注文した料理もほとんど喉を通らなかった。  本当はずっと父親のことを気にしていた。他人の家族を奪うことに手を貸した自分に親の心配をする資格などない——そんな言葉でごまかして、実のところはただ怖くて恥ずかしかっただけだ。  ろくろく父親の言うことを聞かずに勝手な誤解で暴走したばか息子であることは自覚していたから、合わせる顔がなかった。頭に浮かぶのはかつての頑固で怖い父親の姿で、もし会いに行けばどれだけ叱られるかもしれないと怯えていた。  だが、十五年の時はユリウスが自覚していた以上に長かった。ミドルティーンの少年が三十代の男になる間に、頑固な中年男は弱々しい老人になっていた。父がひとりで寂しがっていると、どうして一度も想像できなかったのだろう。 「はい。熱いから気をつけて」  ことんと音がして、ニコがテーブルの上にコーヒーの入ったカップをふたつ置いた。小さなダイニングテーブルに向かい合って置かれた椅子。定位置に座るものの、ニコは特段ユリウスに話しかける訳でもなく自分の分のカップに息を吹きかけている。  帰りの道すがらニコは必要最低限の言葉を発するだけで、あとはユリウスをそっとしておいてくれた。飛行機の中ではずっと目を閉じて眠っているようだったが、あれもユリウスを気遣っての寝たふりだったに違いない。  両手でカップを包み込むと手のひらにじんわりと温かさが伝わってきて、それはニコの優しさ同様にユリウスの心に染み込んだ。コーヒーをひと口含むと、その苦味は少しだけ過去を振り返る苦さと似ているような気がした。 「父さんは、どうしてニコたちの逃亡の手助けをしたことを俺に黙っていたんだろう。ニコがクラクフから送ってきたハガキも書斎に隠していた。俺がニコの行き先を気にしてるって知っていたのに」  隠したりせずにあの頃すべてを話してくれていたなら、父を誤解して心を閉ざすことなどなく、もう少しまともな選択ができただろうか。もちろん何もかもいまさらな話だとわかっているが、考えずにはいられない。  思わずつぶやいたユリウスに、ニコが顔を上げる。 「それはお父さんが、君がどういう人間かをよく知っていたからだろう、ユリウス」  鈍いユリウスにはそれだけではわからない。眉をひそめるとニコは微笑んだ。 「お父さんは君のことを愛していたからこそ、君が大切に思ってくれていた僕たち家族に手を貸してくれたんだ。だからって大事な息子本人を危険に晒したいなんて思うはずないだろ。もしあのときお父さんが車の手配をしたって知ったら、君はどうしてた?」 「……もちろん、父さんを問い詰めて、何としてでも行き先を聞き出して——」  ほら、とニコが満足げにうなずく。  確かにユリウスがあのとき事実を知ったなら、行き先を聞き出せとかポーランドに連れて行けだとか、手がつけられないほど大騒ぎをして別の意味で危険な行動に出ていた可能性は大きい。ニコの言う通り、父はそれを懸念したのだろう。  不思議だ。父の息子であるのは自分なのに、どうしてニコの方が正確に父の気持ちを推し量れるのだろう。それだけではない。ニコはユリウス自身の気持ちすら、自覚していない深い場所まですくい上げてしまう。  本当はずっと父に会いたかった。父に許されたかった。会いに行くどころか手紙を開く勇気すらなかった意気地なしのユリウスの背中を、ニコが押してくれたのだ。おかげでナタリーにまで会うことができた。ハンブルク行きを渋った今朝の自分が、今となっては恥ずかしく思える。 「ありがとう、ニコ」 「お礼を言われるようなことをしたつもりはないよ」 「そんなことない。ニコが無理やりにでも機会を作ってくれなきゃ、俺は父さんに会いに行く勇気なんて一生持てなかった」  感謝の心、そして愛しさが湧き上がる。本当ならば今、抱きしめてキスしたい。この気持ちを言葉だけでなく身体中で伝えたい。でも、それはできない。  ユリウスは出所後に再会して以来、一度もニコに触れていない。肩を叩くとか、腕をつかむとかその程度の日常的な触れ合いはある。だが、抱きしめる、口付ける、さらにもっと先の行為——そういったことすべてをきつく自分に禁じていた。  ニコに触れることは痛々しい記憶に直結している。十四歳の頃に幼い情欲を抑えきれずニコに触れたことが、レオに関する一連の誤解のきっかけとなった。アウシュヴィッツでは絶望と自暴自棄の結果、嫌がるニコを何度も何度も辱めた。記憶を失っているときですら、ユリウスを守るための嘘に苦しみながら平穏な生活の維持に必死でいるニコの気も知らず、嫌がる体を押さえつけて犯した。  この汚れた手でニコに触れることは、傷つけること他ならない。ユリウスはそう過去から学んだ。そして、自制の結果として少なくともこの半年間のニコとの生活は穏やかで平和に過ぎている。だから、いつか劣情を堪えきれなくなる日が来ることを恐れながら、ユリウスはできる限りは自分を律し続けるのだと決めていた。  ニコの照れたような笑顔を見ると、胸の奥がむず痒くなる。これは良くない兆しだ。ユリウスは残りのコーヒーを飲み干すと立ち上がった。 「さあ、もう遅いし俺はそろそろ寝るよ。ニコも明日は仕事だろう?」  シンクでカップをゆすぎながら訊ねるが返事がない。振り返るとニコはさっきまでの笑顔が嘘のように、沈んだ表情でカップの中をのぞきこんでいる。疲れで機嫌が悪くなってきたのだろうか? 不思議に思いながらブランケットを取り出していると、ユリウスの背中に向かってニコがやや緊張したような声を投げてきた。 「ユリウス、あのさ」 「なんだ?」  振り返ると思いのほか真剣な目と目が合った。そして、ニコは気まずそうに視線を斜めに外して言った。 「今日は一緒に寝ない?」  それがベッドへの誘いだということに気づくのにたっぷり十秒はかかった。いや、ニコが耳たぶまで真っ赤に染めているのを見てなお、それが毎日ユリウスがソファで眠っていることを申し訳なく思うニコからの「同衾の提案」ではないかという疑いは拭えなかった。 「あんな狭いベッドに二人は無理だろう……」  そうつぶやくとニコがあからさまに傷ついた顔をするものだから、当然ユリウスはあわてる。間違えた。ユリウスは完全に答えを間違えたのだ。 「え、あの。ニコ」 「ごめん。なんでもない、忘れて」  ニコは弾かれたように立ち上がると、珍しくカップをダイニングテーブルの上に置きっ放しにしたままで足早に寝室に向かおうとする。ユリウスは反射的に後ろからその腕をつかみ、そこではじめてニコの全身が小刻みに震えていることに気づいた。耳たぶどころか首筋までも赤らめて、床を向いた視線は泳いで、精一杯の勇気をあしらわれた恥ずかしさと惨めさがニコの全身からあふれ出していた。 「は、離して。もう寝なきゃ明日の仕事に……」  もう我慢などできるはずがない。後ろから力任せに抱きすくめると、ニコの言葉は途中で立ち消えた。腕の中で震える体に、さっきまで感じていた以上の愛おしさと申し訳なさでいっぱいになる。 「ごめん。ごめん、ニコ」  唇を寄せ、謝罪の言葉を耳に吹き込むとニコはひときわ大きく震えた。緊張しているのか怒っているのか、抱き返してはこない。しばらくたってようやく小さな声が聞こえてきた。 「別に……嫌なら無理しなくても……」 「ニコ?」  そしてニコはユリウスが想像だにしなかった言葉を口にした。 「君の周りにはいろんな人がいるし……僕ももう若くもないし……だから本当に、あの」  ユリウスは、鈍感な自分を張り倒したかった。  今の今までニコがそんなことを気にしていようとは夢にも思わなかった。ユリウスがニコに触れたい気持ちを必死に押し殺しているとき、隣の部屋でニコは密かに傷ついていたというのだ。年齢を重ねたニコに対してユリウスが性愛的な魅力を感じなくなっているのではないか、新しい生活で出会った他の誰かに心惹かれているのではないか、そんなありえないことを想像しては不安に苛まれていただなんて。 「本当にごめん、ニコ」  抱きしめる腕により強く力を込めて、ユリウスにはただ謝ることしかできなかった。謝って謝って、腕の中の体の強張りが緩むのを待ってから、今度こそ間違えないように慎重に言葉にする。 「俺はおまえを抱いてもいいのか?」  ニコは、小さくうなずいた。
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