1960年 ハンブルク

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1960年 ハンブルク

 晴れた午後の公園を、ニコは車椅子を押しながら歩いていた。車椅子に座る老人は、左脚の欠落が目立たないよう膝にかけたブランケットで足先まで覆ってやっている。本人はあまり気にしていないようにも見えるが、彼が戦争で負った怪我とどのように向き合えばいいのかニコの中ではまだ答えが出ないままでいる。  ニコは昨年大学を卒業し、それと同時に幼馴染でありパートナーであるユリウスとともに仕事を辞めて、二人の故郷であるドイツ北部の街ハンブルクに移り住んだ。  西ベルリンを去ること、特に長く勤めた職場を去ることは寂しかった。身寄りもなく住む場所もない怪しい若者を雇ってくれて、しかもその若者がナチスの戦犯を隠匿していた罪で執行猶予付きとはいえ有罪判決を受けたときですら、境遇に同情した上で仕事を続けさせてくれた。ニコに学び直しを勧めてくれて、出所したユリウスの仕事先も紹介してくれた。ニコは出版社の社長のことを二人目の父親のように思っていた。  後ろ髪を引かながらもニコは、かつて不本意なかたちで離れた故郷への強い思い入れを消すことはできなかった。それと同様に、何もかもを戦争で失った自分に唯一残された大切な人間であるユリウスのたったひとりの家族をひとりきりにすることにも気がとがめて堪らなかった。 「最近、いろんな人からうらやましがられるんだ。親思いの優しい息子さんがいて幸せだって」  車椅子に座ったシュナイダー氏——ユリウスの父親がぽつりとそんなことを口にする。 「ええ、ユリウスは優しいですから」  ニコは微笑みを浮かべて返事をする。  その言葉に嘘はない。ユリウスは頻繁に父親の元を訪問しているし、かつての不和が嘘のように二人の関係は良好であるように見える。今日は珍しくユリウスは用事があるのだとひとりで出かけたからニコはひとりで施設を訪れているが、連れ立ってここにやってくることも多い。  こんなことを言い出すなんて、やっぱりユリウスの来ない週末は寂しいのかもしれないな、とニコは思う。来週からは忙しくても少しくらいは顔を出すように言っておこう。そう心に決めたところで、意外にもシュナイダー氏はニコの言葉を否定した。 「違う、あの生意気な駄目息子のことなんかじゃない。あいつはやってきても文句と説教ばかりだ。みんなが褒めてくれるのはニコ、君のことだよ」 「え……?」 「みんな、私には息子が二人いると思っているようだ」  一瞬どのような反応をすればいいのかわからず、ニコは言葉に詰まる。後ろからではシュナイダー氏がどんな顔をしているのかが見えない。だが、その声色は穏やかで優しげで、だからニコは素直に喜んで良いのだと判断した。 「ありがとう、ございます」  もちろん彼の言葉には多分に社交辞令が入っていることはわかっている。彼にとってはたったひとりの息子であるユリウスが誰よりも大切で愛おしく、だからこそ、そのユリウスに大切にされているニコにもできるだけ親切にしてくれているのだと。  この敬虔なクリスチャンの老人が、いい年をして結婚どころか女の影もない息子とその同居人である幼馴染の関係をどう認識し、どのように納得しているのかニコにはわからない。わからないながらに、何も聞かず何も言わないのは彼なりの答えなのだろうと、与えられる優しい言葉をまっすぐに受け入れることにしている。 「礼を言うのはこっちの方だよ。貴重な休日をこんな年寄りの相手で潰させてしまって申し訳ない」 「そんなことありません。僕もここに来るのは楽しみにしています」  シュナイダー氏はニコにとっては愛する人の父親であるだけでなく、命の恩人でもある。そして今ではニコは、実の父と母相手に叶わなかった親孝行を、彼を通じてほんの少しだけでも体験させてくれもらえることにも感謝の気持ちを持っている。だから、ここを訪れるたびシュナイダー氏から冗談交じりに子どもの頃のユリウスがどんなにわがままだったかを聞かされたり、一緒に散歩したり、時にはリウマチで痛む体をさすってやったりするのが楽しみであるという言葉に嘘はない。  ニコは長いあいだ自分は不幸なのだと思っていた。だが、今では考えが変わった。自分は大きな不運に襲われたし、悲惨な出来事を経験したが、その中でも幸運な出会いに恵まれ、最終的には幸せになることができた。もちろんそれが親や兄妹をはじめとするたくさんの人々の犠牲の上に成り立っているものだということは忘れていない。それでもようやく手にした愛する人との穏やかな生活に幸福を噛みしめるくらいのことをしたって責められはしないはずだ。 「あ、すみません。ちょっといいですか?」  芝生の隅に咲く野の花にふと目を留めてニコは車椅子を押す手を止める。 「ああ」  シュナイダー氏の了解を得ると、ニコは小走りで芝生へと走った。黄色い花を集めて作った小さな花束を手に戻ったニコは、自分を見つめる温かい眼差しに気づいた。 「お墓に持っていくのかい?」  そう訊かれてうなずく。 「ええ、せめて花くらいは絶やしたくないので。いつもお店で買うわけにもいかないから」 「綺麗だ。君の家族も喜ぶだろう」  ニコは少し前に、かつて通っていた教会の墓地に小さな墓を建てた。  ハンブルクへの引越しを決めたとき、ニコは新生活をはじめるための費用は自分が出すつもりでいた。ささやかな貯蓄はそれでほとんどなくなってしまうが、帰郷という長年の夢が叶うのならばそれでもいいと思っていた。しかし、いざ部屋を借りる段階になるとユリウスはニコには黙って貯めていたという金を出してきた。そして引越しのための金はすべて自分が出すと言い、ニコの貯金については思わぬ用途を提案した。 「ニコ、小さくてもいいから墓を建てよう。おまえの家族の墓を」 「お墓なんて作ったって入れるものがないよ」 「いや、あるじゃないか」  そしてユリウスは、ニコが西ベルリンから持ってきた数少ない荷物の中で、一番大切にしている古ぼけた箱を指し示した。  ユリウスと自分自身の裁判が終わった後、ニコはもう一度ブルーノと会った。ブルーノはかつてニコの兄であるレオと同じ反ナチ活動グループで活動していたドイツ人の男で、ゲシュタポに連行されたレオを救えなかったことを長いあいだ気に病んでいた。レオの逮捕のきっかけになった通報を行ったのが、当時のレオの恋人だったイレーネだとニコに教えたのは彼で、その話を聞かなければきっとニコは今もユリウスを兄の仇だと信じたまま、ひとりきりで生きていただろう。  ニコは、ブルーノのおかげでイレーネと話ができ、ユリウスへの誤解が解けたことへの礼を言いに彼の元を訪れたのだが、そこでブルーノが取り出したのがこの箱だった。 「この間は急な再会だったし時間もなかったから話さなかったけど、君たち家族の中で無事だった人と再会できたらこれを渡したいと思っていたんだ」  促されてそっと蓋を開け、ニコは息を飲んだ。そこには家族の写真数枚と、毎日家族全員で祈りを捧げていた小さなマリア像が入っていた。 「どうしてこれを……?」  レオに続いて他の家族にまで逮捕の手が迫っていると知らされ、一家は慌ただしく身の回りのものだけをまとめてポーランドへ亡命した。そんな緊急時にすら母は一冊のアルバムを荷物に忍ばせたが、長く厳しいゲットー生活の中でいつしか写真は散逸し、最終的には母と妹がアウシュヴィッツのガス室に送られたところですべてが失われた。だからニコは、自分が家族を偲ぶためのものはこの世には何ひとつ残っていないと思っていたのだ。 「君たちがハンブルクを去ってから、間もなくドイツ人の一家があの家に住むようになった。その前に、いつか君たちと再会できたときのためにと、僕は家に忍び込んでこれを取ってきたんだ。ほんの少しだけだけど、いつか渡せればと。あの家はその後空襲で焼けてしまったから、やはり取っておいて良かった」 「ありがとう、ブルーノ」  受け取った箱を大事に腕に抱えて、ニコは少し泣いた。  写真の中の家族は、ニコがすっかり忘れてしまっていた明るい笑顔を浮かべている。突然家にやってきたゲシュタポに、覚悟を決めた険しい表情で連行されていく兄。長男を失った悲しみと将来への不安で憔悴した父。長いゲットー生活で痩せ細り疲れ果てた顔をした母と妹——二度と会えない家族の姿を思い出そうとしても浮かんでくるのがそんなイメージばかりであることはひどく辛かった。だから、一家がともにあり、幸せだった時代が決して幻でも妄想でもないことを教えてくれ、記憶の中の家族を幸せな表情に上書きしてくれる品や写真は何より嬉しい贈り物だった。  ニコは、かつて一家が通っていた教会の墓地に自分の家族のための小さな墓を建てた。ユリウスがどこかに頼んで写真を複写してくれたから、墓石の下には遺骨や遺灰の代わりに家族の写真を納めてある。こじんまりとした墓碑に並んだ四つの名前を見ていると、離ればなれで死んでしまった家族が再びひとつ屋根の下に戻れたような気がして嬉しかった。  ユリウスとニコはときどき散歩ついでに墓を訪れる。それ以外にもニコは数日に一度はこっそりひとりで墓地に出かけるが、そのときユリウスに声をかけないのは、彼が今もニコの家族の運命について少なからず責任を感じているように見えるからだ。ユリウスはたくさんの後悔や罪悪感を背負って生きているし、その重さは一生消えることはないだろう。だからニコは、せめて自分の家族の分だけでもユリウスから取りのぞき、楽にしてやりたいと思う。  それでも、ニコがそっとひとりで墓地へ行くと、墓の前の落ち葉が掃除されていたり花が新しくなっていることは頻繁にあった。
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