1946年 ミュンヘン

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 幸いクラウスとの出会いにおいては、レオの出自はむしろ好感を引き出す結果となった。なぜならば、クラウスもまたユダヤの家系に生まれた人間だったからだ。だが、クラウスは由緒正しいアーリア人であるドイツ市民の妻を持っていたため、戦時中は逮捕も収容所送りも免れた。  とはいえ絶滅すべき人種と名指しされ人々から白い目で見られ、日々将来への不安と恐怖に苛まれるだけでも相当な辛さであったことは間違いなく、その苦悩こそがクラウスの顔に深い皺となって刻まれている 「奴らに裁きが下ったっていうのに気持ちが動かないか。まあ、お前さんはここをやられちまってるみたいだから、感情が追いつくのにもう少し時間がかかるのかもしれないな」  クラウスがこめかみの上をつついてみせるのに、曖昧な笑みでレオはうなずいた。  レオには病院で目を覚ます以前の記憶がない。おそらく頭部に負った傷が原因なのだろうが、目を覚ましたときには、生まれてから戦争が終わるまでの記憶は一切失われていた。だから日々明らかになる絶滅収容所の悲惨な実態を見聞きしてもどこか他人事のようだし、自らを迫害したはずの第三帝国やその国民への恨みも憎しみも実感を伴わない。 「まあ、弟さんは喜ぶだろうから、今日は祝杯でもあげるといい。俺も今日は秘蔵のワインを開けることにするよ」 「そういえば、ここに来るのも今日が最後なんです」 「退院か?」 「ええ。体もずいぶん動くようになったし、肺もすっかりきれいになったそうです。まあ、頭の方が相変わらずですけど。病院はもう少しいてもいいと言ってくれているんですが、弟がどうもせっかちで」  支援環境の整った病院を出れば生活の心配をしなければならない。ニコはともかく、頭にも体にも問題を抱えた自分がまともに働けるとは思えないレオとしては、早期の退院には後ろ向きなのだが、普段物静かで穏やかな弟がこの件に関しては思いもよらない頑固さを見せている。  ウィーンに行けば知人の伝手で部屋と仕事を紹介してもらえそうだからとどうしても譲らないニコの前に、折れたのはレオだった。
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