1946年 ミュンヘン

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「大丈夫か? ウィーンにはソ連の赤軍がいるんだろう? ポーランドでもあちこちでユダヤ人を狙った虐殺(ポグロム)が起きているって聞くし。ドイツだって、ここはまだマシだが、ソ連の占領区域はひどいって噂だぜ。まったく、帝国(ライヒ)がなくなったからって、そう簡単に生きやすくはならないもんだな」  ひとつ大きく息を吐くと、クラウスは腕につけていた時計をおもむろに外してレオの手に握らせた。 「おまえさんとは毎日ここで会って話すだけだったが、これも何かの縁だ。たいしたものじゃないが、餞別にとっておいてくれ。何かの時に少しの金にはなるだろう」  純金がふんだんにあしらわれた一見して価値のあるとわかる時計を受け取りかねていると、クラウスはそれを無理やりレオのポケットにねじ込む。そして低い声で、懇願するように続けた。 「これは俺の自己満足なんだ。頼むから受け取ってくれ。少しでも罪滅ぼしをしている気分にさせてくれ」  どうしようもなかったのだ。クラウス一人が声を上げたって何も変わらなかった。  例えば彼が同胞を救おうと行動したとして、その結果はおそらくただで終わった。そういう時代だった。それでも彼は日々新聞やニュース映画で死んでいった同胞を目にするたび、収容所から出てきたボロボロのレオと顔を合わせるたび、無傷で生き延びた自分を恥じて苦しんでいるのだ。  レオは二度と会うことはないであろう男に礼を告げポケットに金時計をしまうと、彼とかたく手を握り合ってから公園を後にした。
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